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改めて自己紹介をします。treとは何者なのか。


改めまして福岡県宗像市在住のシンガーソングライターのtre(トレ)と申します。


1番最初の投稿で自己紹介をしないというミスリード、相変わらずこういうところはどんくさい人間です。 


2023/9/10 油須原駅「ツキイチゆすばる」より


音楽活動を復活して1年と半年ほど経ちました。


ありがたい事に「名前はよくみます。」とか「ライブ観たことあります。」とか「話は誰々から聞いています。」と言われる機会も多くなってきて、ライブし続けていて良かったなと思う日々です。


もしかしたらここ最近出てきたわりに、初心者っぽくないと思われていたり、妙に知り合いがいたり、繋がりがあったり、変なやつだなと思われている方もいらっしゃるかもしれません。


このタイミングでどんな音楽人生を歩んで来たのかを話しても良いかもしれないと思い、思い出す限り話したいと思います。


実は今年でtre(トレ)になって10年目です。よろしくお願いします。


treになる前、本名時のライブ写真(19歳)


treの現在の主な活動

現在私は仕事をしながらシンガーソングライターとして活動しております。 

2022/5/8 アクアリウム「博多01」より

天神西通り近く、大名にありますlivecafé&barアクアリウムを拠点として、県内外問わず活動しております。


2022年5月の「博多01」から2023年末までに52本のライブ(+オープンマイクに数回)に出させて頂きまして、かつてないほどの音楽漬けの日々を過ごしております。


アクアリウムでの主催ライブの「トレノバ」、そして宗像のBARTAMARIBAでの企画ライブ「タマリバノマツリ」をしておりまして、その他ブッキングライブにも出演させて頂いております。


バンドもたまにしております。


弾き語り活動の方が多く、これからも弾き語り活動を中心に活動していくつもりですが、バンドのお誘いもお待ちしております。


なお、ギターしかできません。ベースもドラムも鍵盤も素人以下です。


treのアコギとの出会い(高校生編)


1番はじめにギターと出会ったのは高校1年生の冬でした。


音楽の授業で「禁じられた遊び」をギター弾く課題がありまして、それが出会いでした。


当時treでもなんでもない私は捻くれ上がった人間で、「クラスのちょっと調子乗ってる奴でもそれなりに出来てるギターなんてチョロいだろう」という甘い考えがありました。


私の音楽歴自体は長くて、4歳からマーチングバンドに所属していて、当時もまだ隊員でした。


結論からして、長年の音楽歴が一切歯が立たず全くギターが弾けませんでした。


学力が身の丈に合わない高校に通っていて、他の成績がズタボロの中、音楽の成績くらいはなんとか面子を保ちたいと思った私は親戚のおじさんに泣きつきまして、ギターを借りることが出来ました。

およそ11年前の写真、鈴木バイオリンのthree S

今このギターは自分の知り合いの誰かが持っていることでしょう。


アコギが好きな友人から、ギターの弦からピックからスコアから何から何まで教えてもらって、禁じられた遊びを練習しました。そのおかげで何とかアルペジオでコードを弾くところまでは辿り着けまして、音楽の成績だけは死守しました。


そうする中でちょっと他の曲練習したいなと思い、友人から「ゆずなら簡単だよ」と言われて「また会える日まで」のスコアをもらって練習しました。

その年の冬、音楽の授業の最後にセッションがあったのですが、ギターは任せてもらえず(Fが抑えれず)ボーカルだけだった気がします。


2年生になりまして、ゆずやらスピッツやら簡単な曲を人に見せるわけもなくカバーして、比較的ライトに音楽をしていたのですが、とんでもないアーティストを知ります。


山崎まさよしです。


「歌うたいのバラッド」の弾き語りが出来るくらいの頃に「この曲が歌えたらモテるだろう」「ギターが弾けると言っても良いだろう」とそろそろ受験勉強しなきゃだなぁと考えていた自分に衝撃が走りました。


one more time, one more chance、この曲をコピーしないと死ねないと思うようになりました。

どうせならU-フレットレベルではなく、完コピしたい。それから自分の人生は大きく狂いました。

低い位置でも何とか保っていた成績はダダ下がり、留年一歩手前になってもギターを触り、くる日もくる日もこの曲を練習して、親には怒られ、友達にも呆れられながらそれでも練習していました。

この冬も音楽の授業のセッションがありましたが、甲斐あってギターのポジションをゲットしてお茶の子さいさいでゆずの「また会える日まで」を弾きました。

one more time,one more chanceを人前で弾けると言っても良いレベルになったのは高校3年生の夏あたりでした。この頃になると、コード譜を見ればその曲は弾けるレベルになっていたと思います。

「仲のいい3人で文化祭に出ようよ」と誘われて初めてアコースティックユニットを組みました。ニコタッチのアコースティック編成を参考にアコギ2本とカホンの3人組、それぞれの名前をもじった「古梵。」というユニットでした。

5曲くらいしたのではないかなと思いますが、難なくこなしたのは覚えています。受験前なのに。

そこから受験勉強は何とかしていましたが、第一志望の大学には受からず、私大受験では10校ほど落ちて、後期試験、後がない状態で何とか面接だけの福岡教育大学に受かりました。センター試験様々です。

卒業式の時にゲリラで教室でライブをしたのを覚えています。ゆずの曲を中心に。今思えば黒歴史ですが、盛り上がってくれた記憶があります。

treの誕生とエレキ(大学生編)

大学進学を機に絶対に軽音学部に入りたいと思っていました。

「否が応でも、バンドを組めばエレキを触るし、エレキの技術が必ずアコギに返ってくる」そんなことを考えながら入部したのを覚えています。

しかしなかなかバンドが組めず、しばらく経ってから夏のライブギリギリに一つバンドを組めました。

今でも忘れない「まさよしズ」。

まさかの山崎まさよしのコピバンでした。

友人から初めてのエレアコを借りて挑みました。オベーションの廉価版「applause」で挑みました。

後に貰い受けたが、行方知れずのオベーション

もちろん評価は「変わった奴」でしたが、評価してくれる人も居て、褒められると調子になるタイプだったので、大変な厄介な人間に育ちました。

軽音部と並行してアコースティックギター愛好会にも所属しましたが、軽音部に行くことが多かったです。

しかしアコ愛からの繋がりで初めて学外のイベントにも出演するようになります。

おそらく二度目の学外ライブ、本名時

この頃から弾き語りでオリジナルを作るようになりましたが、その頃の曲は到底できません。


めちゃくちゃ遡れば、FM北九に学祭の宣伝で出た時に披露した曲がアーカイブで残っているかも知れませんが、めちゃくちゃ青いです。ギターは赤かったです。

大学生1年生、ピッカピカのギター達

色々と学外の活動をするようになってから、大学院の先輩からこんなことを言われました。


「何のためにオリジナルを作るのか。学校の先生になるならいらなくない?」


何故かそこで引き下がれなかった自分は、きっとその頃から音楽をずっとしたいという思いがあったのだと思います。


その先輩からとある店を紹介して貰います。そのお店が「赤間53club」。自分の住んでいるところから1駅向こう、自転車で行ける距離のお店で、金曜日の夜に「金生(金曜日は生演奏)」というイベントをしていて、そこに出るようになります。


ここではじめて批判らしい批判を受けるようになります。


歌が下手、ギターのリズムが下手、曲が暗い等等。散々なものです。


でもこの課題はクリアしていきたいと、そしてせっかく近くの場所で呼ばれているから何とかしていきたいとの思いでライブをしていました。


転機はその数ヶ月後でした。1曲、すごくバンドでやったら映えそうな曲が生まれました。「アフタヌーン」という曲で、歌詞は思い出せないですが、ギターフレーズは今でも弾ける曲で、今思えばシティポップ調の曲でした。


軽音部の同級生もオリジナルを作り出して精力的になっていく中で取り残されていた気になっていた自分は最高のメンバーで組みたいと思い、1番うまいと思ったベースの先輩と、現在もドラマーとして活動している当時の先輩とバンドを組みました。


そのバンド名は「femtre(フェムトレ)」。スウェーデン語でfem-5、tre-3で53clubから取りました。


初動からベースが抜けてしばらく動けませんでしたが、同級生のベースが入ってなんとか動き出しました。

femtreの貴重なアー写、ストラトはfender USA


その頃に音楽活動している事が両親にバレて、本名で活動が出来なくなり、名前を変えて活動しなければならなくなり、切迫詰まった結果、「femtreのtreさんなら繋がりがあるな」と思い、treという名前で弾き語りもするようになりました。それが20になる年のことでした。


femtreで活動したり、弾き語りでtreで活動したりの時期がありまして、ライブハウスに出たこともありました。この頃に出来た曲で今でもやっている曲が沢山あります。

・水の国へようこそ
・シネマ
・飛行機に乗って
・月

先日の東京でのライブでもシネマと月はしました。大事な曲達です。

メンバーが卒業するタイミングで、femtreは自然と解散となり、弾き語り活動のみになりましたが、ここで自分にとって大きな出来事がありました。

それはとあるライブの中で、大きく失敗をしてしまったことです。自分だけの要因だけでない部分もあったと思いますが、広く考えた時に自分自身に力がないということを思い知らされました。

この時に一人で音楽をする事、主に弾き語り活動に恐怖心を持つようになりました。

「何とかして音楽を続けたい」

一人では到底ステージに立てないと思った私はユニットを組むことにしました。

APLOというユニットです。

いつの間にか買ったyamaha fjx905 APLO初ステージ

ボーカルを別で2人立てて、自分はギターだけを弾くスタイルのユニットで、何か自分の中で大きく変わりたかったのだと思います。

この頃にしていたオリジナル曲は、あまり覚えていません。でも1曲だけ残っている曲があります。

モダン・ロマンスという曲。

今弾き語りでも出番は少ないですが、ここぞという時に使うようにしています。

自分の思いとは裏腹にこのユニットが過去の活動の中で1番精力的で、赤間53clubはもちろん地元のお祭りや小倉FUSE、そして伝説の照和に出たのも良い思い出です。

50枚近く擦ったCDも全部はけた記憶があります。

このユニットもメンバーの卒業とともに自然と解散となり、しかしその中で自分の中で改めて歌いたいという思いが少しずつ募って行きました。

大学を離れてから(20代前半編)

結果として5年通った大学を離れて、いよいよ音楽活動をしようとなった時にfemtreのベースからもう一度バンドをしようとの誘いがありました。

是非しようとなり、後輩のドラマーを引き連れて始まったのがfilmend(フィルムエンド)というバンドでした。

filmendの最終的なアー写

バンド活動をするならちゃんとしたいと思い、下積み期間を設けました。

赤間53clubで約1年ほどステージに出ていて、少しずつライブハウスにも出演するようになりました。

ライブハウスに出るようになってからSEを使ってMCを一切せずにセリフを入れてやるようになり、コンセプト通りの「映画」のようなライブをするようになりました。

femtre時代からやっていたシネマ、APLOの曲のモダン・ロマンスを看板にして、バンドとしても良い完成度になってきた頃に、悲しいニュースが来ました。

赤間53clubの閉店です。

急なお知らせでした。「これからやっと恩返し出来るのにどうして」という気持ちが最初でした。

filmendもメンバーの都合がつかず、ドラマーと自分の二人だけで参加しました。

このステージで本当に久しぶりに一人で弾き語りをしました。最後の数曲。ここで育った身としてバンドだけするのは礼儀がなってないと思ったからです。震えていましたが、1番いいライブができたと思います。

しばらく経ってもう一度誘われて弾き語りをしました。旧飯塚hulotにて。きっとこの頃には一人でステージに立つことはできたんだと思いますが、それ以上にバンドに力を入れていて弾き語り活動をする余裕がなかったんだと思います。これっきり弾き語りをすることはありませんでした。

treとしてよりも、filmendをやっていきたい。

自分の中でfilmendは大きなコンテンツだったし、このメンツなら行けるとも考えていました。

filmendで精力的に活動していく中でいよいよ音源を作り主催ライブをするフェーズまで来ました。

その冬にレコーディングをして3曲入りのEPを作り主催ライブをしようという時にコロナが世の中を駆け巡りました。

filmendの時の足元
filmendの時に買ったGibson modern

レコーディングはしてモノも納品したタイミングでの出来事に狼狽した記憶があります。

集客は出来ない、ライブが出来ない、それでも何とかしなければならない。

自分もこの時仕事の都合で福岡を離れておりリモートでのバンド活動を強いられていた時期で、福岡と大阪を行ったり来たりしながらもライブが飛ぶというような日々を過ごしていました。

秋になったら落ち着くという見立てを立てて、何とかお世話になっていた小倉FUSEと四次元で主催ライブを敢行することを決めました。

物凄く大変だったのを覚えています、自分でこんなにキツかったのだからメンバーはもっとキツかったと思います。

どちらのライブも結果的には良かったと思いますが、メンバー全員の体力も精神力も疲弊した記憶があります。

コロナが本当に憎いと思いました。

その後もライブのお誘いを貰うことはあり、出演も決めても、自分が大阪から来れなかったり、福岡がダメだったりとタイミングが合わず、メンバーとも上手くいかず、結局この主催が最後のライブとなりました。


音楽活動から離れた日々を過ごす中で(コロナ禍を経て)

およそ2年弱、ライブをすることがなく悶々とする日々を過ごす中で、ライブのお誘いを貰うことがありました。

その人はバンドマンで、コロナを機に弾き語りを始めた人でした。

そのステージを観た時に、「そう言えば自分も弾き語りをやっていたなぁ」とか「今でも自分は弾き語り出来るのかなぁ」とか何となく考えながらステージを観ていたら凄くかっこよく見えてきて、また音楽活動しようかなと何となく感じました。

その人がステージから降りてきて、「また対バンしましょうね」と言われたんです。

てっきりバンドで対バンするものだと思っていて、「またメンバー集めからせなんやね」と言ったら、「いや弾き語り出来ますよね?弾き語りで対バンしましょうね。」と言われました。

もう呆気に取られるというか、今まで弾き語りをしていなかった事が凄く恥ずかしくなってきたというか、自分のルーツは一体なんなんだと考えさせたれた結果、自分の中での火が点りました。

復活の日のフライヤー

縁があってすぐに出演が決まりました。

アクアリウムでの「博多01vol.42」

最後のライブから1年強、最後の弾き語りからは3年振り、でも精力的に弾き語りしてた時期からは8年振りの一人でのステージ。

名前を変えることを一瞬過ぎりましたが、自分の中ではやっぱり「tre」でありたいと思い、treで出演することを決めました。

思い出すのは赤間53clubでの日々。少なくとも自分くらいはあの店があったことを言い続けようと、それくらいしかあの店に恩返しが出来ないと思い、この名前で行くことにしました。

femtreのtreではなく、filmendのtreではなく、赤間53clubのtre。

furch G23 SRCTとこの日に向けての練習


ライブが決まってからこの日までの2ヶ月と少し、今までの人生の中で1番アコギと向き合いました。

楽曲も全て見直して、シネマのアレンジを変えて、弾き語り仕様にチューニングをして、これ以上ないくらいに仕上げて行きました。

20分という時間で自分のしたいことを伝えなければならない、そんな思いでステージに向かいました。

結果としては、上々。今までのライブの中で1番手応えがあったのではないでしょうか。

早々に来月出てとのお声掛けもあり、次のライブまで時間がない中でさらにクオリティを上げていけたらと思いながら、自分の中での新たな幕開けとなりました。

アクアリウムでの日々(アクアリウム編)

アクアリウム本イベント出始め


自分の中で決めていた事があって、それは12月まではアクアリウムにしか出ないという事でした。

弾き語りに相当なブランクがあるので、現在の弾き語りシーンを見極めたい、現在のシーンにチューニングして行かなければならないと考えたからです。

また自分自身のスタイルの形成。バンドでやっていたことをそのまま弾き語りに移植している状態では数はこなせないと考えたのもあります。

あとは単純に友だちが欲しかったという事です。

案の定、弾き語りに対するウエイトは重くなって行き、無駄な部分は削ぎ落として、徐々に今のようなスタイルになって行きました。

しかし自分自身の調整期間も期限を設けました。1月に主催をする、その一つの目標を立てました。

その名も「トレノバ」。

シンガーソングライターtreの一つのケジメ


この日を迎える。今までの自分のつながりとこれからのつながりを見せる。そして今までの自分を見てくれた人に今の自分を見せる。

その目標を達成してからこそ、他のところに行く。

こんなワガママを聞いてくれたのも今のtreのホームのアクアリウムでした。

1月もこれ以外にはライブを入れずに集中して取り組みました。

この日を境に新たに弾き語り、シンガーソングライターtreとしての再スタートをするという気持ちで挑みました。

結果として多くの人に来場頂きまして、イベントとしても成功したと言えると思います。

この日から以前よりお誘い頂いていた場所にも挑戦するようになり、またアクアリウムでも確実に月に一度は出演するというようないまのスタイルが形成されて行きました。

2023年の総括(現代編)

全42本のライブ

動き出してから、2023年は42本ライブをさせて頂きました。

驚いたのは「再会」が非常に多かったです。

赤間53clubを知っている人、小倉FUSEで一度対バンした人、黒崎マーカスでお客さんとして来てくれた人、、、

今まで闇雲に走ってきた中でも自分のことを覚えてくれている人がいて、シンガーソングライターになっていた人がいて、ニアミスしていた人、自分はまがいなりに福岡の音楽シーンに居たんだという事を知れた一年でした。

それと同時に色んなところでライブをさせて頂き、色んな人と繋がれて、新しくtreというものが形成されている、そんな新しい気持ちにもなれています。

松江AZTiCcanovaから宍道湖に沈む夕陽


2024年の活動(告知編)

ここからは告知にもなっていくのですが、今年も開催させて頂きます、「トレノバvol.2」

2024年一発目のライブはトレノバvol.2

「新しい繋がり、今の繋がり、過去の繋がり」という自分のしたいことをこれでもかと実現出来そうなイベントとなります。

かつて赤間53clubでお世話になったGIRASOUL、今年県外との繋がりのきっかけを下さった上田一輝さん、アクアリウムで知り合って去年からブッキングしていた珈奈ちゃん、県外で繋がった筆島将太さん、その繋がりで井上瞬也さん。

実力者ばかり、バライティ豊かなメンバーでこの日を作ります。

本当に偶然なのですが、この日が弾き語り活動を復活してから53本目のライブとなります。

本当に見て欲しいと思う人たちばかりですので、皆様是非お越しください。

2月以降もライブが決まっております。

ミニツアー開催

今のところ4月にも2本、5月に1本決まっております。

今年の目標は「変革」。

2024年一味違うtreになっていこうと考えております。

皆様是非お会いできるのを楽しみにしております。

最後に

長々とここまで読んでいただきありがとうございました。

自分の中でも今までの人生を振り返ることが出来ました。

改めて気の引き締まる思いで弾き語り活動を努めてまいります。

よろしくお願いします。

またお会いしましょう。

from akama 53 club
tre
special thanks livecafé&bar アクアリウム

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