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『憂い夏、錆びて』感想

ゆれるの楽曲「SHINONATSU」にインスピレーションを受けた作品と聞き、嶋田萌花監督『憂い夏、錆びて』の先行上映会に参加した。

好きなバンドの10年以上前の楽曲が主題歌に使われるのも嬉しいが、何より一曲から受けた閃きを一本の映画にまで昇華できるエネルギーと執念に感銘を受けた。
以下、思いつくままに所感を綴る。
(⚠ネタバレあり)

昼と夜

さゆはヤングケアラーとして祖母の世話に励むかたわら、夜は風俗の仕事で生活費を補う暮らしを送っている。
普通は外で仮面を被り、家では無防備な姿を曝すものだが、実家でのさゆが素を出せているようにも思えない。むしろデリヘルの時より表情が死んでいるようにすら見える。
昼と夜で異なる顔を器用に使い分けているわけではなく、その境目は曖昧なグラデーションとなっている。朝焼けや黄昏時のような”昼と夜のあいだ”のシーンが多かったのもそのためかもしれない。
デリヘルの仕事の描写は、当事者の実体験をもとにしたような生々しさを感じた。殊更に暗い面や怖い面を強調するのではなく、同僚との他愛のない談笑を交えることで、表の世界と地続きな印象を受けた。(1万円渡してきたドライバーの笑顔が不気味で、再登場を密かに期待していた。)

匂い

花屋の線香、母の酒と煙草の匂いなど随所で匂いが強調されている。嗅覚は五感の中で最も記憶と密接に結びついているとされる。情景描写だけでなく、啓太がさゆの香水から真琴のことを想起するなど、ストーリー上でも活かされていた。
自分の匂いというものは、得てして自分にはわからないものである。言わば匂いとは、他者の中にのみ存在する自らの特徴である。さゆや啓太の脳内に残る真琴の匂いは、たとえ本人がいなくなっても、他者の人生の中に生きていたことの証となる。

偽名と本名

デリヘルの仕事で知り合ったさゆと真琴は互いの源氏名しか知らないが、彼女たちの関係は表面的なものでも打算的なものでもなく、たしかに友情だった。
対して、風俗客の遠藤はさゆに対して本名を明かすことで自身の真心を証明しようとするが、彼は重大な秘密をひた隠しにしており、彼とさゆの関係は虚飾にまみれたものだった。
本名を曝すことは自己の開示とイコールではない。

まとめ

本作のテーマは“うつろうアイデンティティ”にあると感じる。
先述した「昼と夜」「匂い(他者の中の自己)」「偽名と本名」も、本当の自分を定義するものは何か?という問いかけが一貫して描かれていた。

思うに、「本当の自分」などという確固たるものは誰も持ち合わせていない。関わった人々の数だけ異なる自分が存在するとも言える。
ここで、小説家の平野啓一郎が提唱する「分人主義」を引用したい。

「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。

職場や学校、家庭でそれぞれの人間関係があり、ソーシャル・メディアのアカウントを持ち、背景の異なる様々な人に触れ、国内外を移動する私たちは、今日、幾つもの「分人」を生きています。

出典:https://dividualism.k-hirano.com/?id=link-about

個人的にこの考え方はとても腑に落ちる。
同じ人物でも人によって評価や印象が分かれるように、人となりというものは双方向的な関係の中に構築されるものだと思う。
たとえば仕事で接する人が私に対して抱く人物像と、友人からみた私の人物像はかなりかけ離れているだろう。しかしどちらかが虚像ということではなく、どちらも自身の側面のひとつ。自己があるとすれば、その側面の集合体からなるものではないだろうか。
橘は自らを「空っぽ」と評していたが、彼だけでなく大体の人間はガワだけで構成されているのかも。
橘がわざわざ写真を部屋に置いていったのは、本性を曝すことでさゆを拒絶したかったのか。それとも、誰かに理解されたいという気持ちを捨てきれず、一縷の望みをさゆに託したのか。

追伸
ロケ地のセンス良かったから聖地巡りしたい。

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