「葛藤の永続性」アフリカ大陸縦断の旅〜ナミビア編⑦〜
2018年9月17日、一度戻って来てくれた彼の車に1時間ほど乗車した後、すぐにトラックに乗せてもらえることになった私たちは、猛スピードゆえの大風に煽られながらも、寝袋を被り寝心地の悪い荷台で目を瞑っていました。
そして、このヒッチハイクにおける感情の振動と向き合った私は、人間の醜さと美しさを想い、真上に広がった星空を眺めていたのでした。
「寝れてる?」
「んな訳ないやん。後4時間この状態はきついよな。チャリ旅前に体力なくなってまう。」
「え?休まんやろ?着いたらすぐチャリ出発やんな?」
「もちろん!初速大事!でも、ほんまに着くと思う?一応行き先はケートマンスフープって言ったけど、途中までかもよ?」
「放り出されたら、まぁ・・・そん時はそん時や。」
運転手の対応に焦燥を感じた私たちは、ケートマンスフープまで行くのかという確認を取らず、とりあえず乗り込んでいました。私たちの知る限り、そこまでは1本道が続くのみ。道が逸れないかとソワソワしながら、定期的に地図と周囲を確認しなければならないその一方で、相変わらず寒すぎる荷台の上で寝転がり、少しでも体力を残そうと無理矢理に目を閉じる、という作業を繰り返していたのでした。
「あれ、街じゃない?」
「ここで降ろされるパターンか?」
急に速度を落とし始めたトラックが、眠れない私たちの目に、遠くの灯りを写しました。
「道路沿いに人おんで。」
「ほんまや。しかも手挙げてる。乗ってくるんじゃない?」
若干の街明かりとトラックのヘッドライトに照らされた2人のシルエットが、荒野の際に浮かび上がりました。そして、そこを少し通り過ぎた所でトラックが停車。
「やっぱりあの人ら乗っけるんやで。2人ってことは俺らと同じ荷台に来るんじゃない?」
「そうかもしれへんけど、そんなことより小便したい。」
「それは思ってた。次いつ停まるか分からんし、運転手に言って待っててもらうか。」
低めの鉄格子を跨いで地面に降り立った私たち。そこには草むらに小便をかける運転手と、こちらに向かって歩いてくる2人の姿。人柄の読めない運転手と素性の分からぬ男性2人に私たち。暗く寒い街の端っこで5人だけの空間。
「(今小便でもしようもんなら、何か起きた時に対応できへん。)」
冷たい風が吹きつける中、私とぴょんすは微動だにせず、徐々に狭まる3人の距離をただただ見ていました。そして、小便を終えたらしい運転手に男性2人はボソボソと何かを話し始めました。
「(頼むから俺らを巻き込まんといてくれよ。)」
すると話がついたのか、男性2人は運転手にいくらかのお金を支払い、そのまま1人用の助手席に乗り込みました。
「おお。どうしたんだ?ここで降りるのか?」
「いや、ちょっとトイレに・・・。」
「そうか、分かった。」
相変わらず感情の乗らない返事をして、トラックに戻っていく運転手を背に、草むらで用を足す私たち。
「(あれは確実にお金払ってた、よな?これは最後に高額される流れか?やとしたら、運転手の態度にも納得がいく。さぁどうする?ここで降りるべきか?でも乗ってたら着くって言われてるしなぁ。)」
意見を求めようにも、大声を張り上げなければ聞こえない距離にいるぴょんす。
「(別に何かされた訳じゃないし、こっちが勝手に怪しんでるだけやけど、待たせすぎたら変に勘繰られる。さっきの金銭のやり取りも見てたこと知ってるやろうしな。波風立たせるのは得策じゃない。荷台に乗るまでの一瞬で話合わないと。)」
未解決のまま終わりそうな状況を理解した私は、比例定数の上昇する放物線を見下げていました。
「このまま乗るか?」
「あぁ、金な。」
「ここまでの分はどうせ支払わないとあかんやろうけど。」
「なんぼか分からんけど、結局支払うなら、このままケートマンスフープまで乗ってええんちゃう?」
「高値言われたら交渉するか。ほんまに現金少ないし、チャリ旅始まってからATMどこあるか分からんからな。」
こうして、わずかな時間で乗車続行を決めた私たちは、再び荷台へと戻ったのでした。
「ヒッチハイクの文化というか、これがこの辺の人の移動手段なんやろな。」
「村と村の間、だいぶ距離あんもんな。みんな車持ってる訳じゃないやろうし。」
「運転手の態度にも納得やわ。乗せた人が日本人やったってだけで、日常的なことやったから慣れてるんやろ。
「てことはやっぱり、外国人価格あり得るやん。どんなもんかは知らんけど運転手からすれば、良いお客さんやで。」
『20(現在的感謝)+0(未来的感謝)=400(自身の欲望)+50(他者の親切心)』
1つ前の運転手に抱いていた葛藤と向き合っていたことで、等閑になってしましたが、乗せてもらった当初のトラック運転手に対する精神公式は上記のものであったと考えられます。どうしても1つ前の運転手と比較してったことで生まれた言動の落差、ただ運ばれているだけという事実が、右辺第2項の数値を引き下げましたが、それでも圧倒的不成立。またしても感謝と罪悪感による道具化が私の精神を襲うはずでしたが、そうはなりませんでした。
こっちは先に進めるし、そっちは稼げるし、ウィンウィンやん!
目的達成の手段としてトラック運転手の道具化を図った私、儲けるための手段として私たちの道具化を図ったトラック運転手。完全な利害の一致。ここに精神の介入を最小化させた物質的イコールが成立していました。
「(精神的にはめっちゃ楽ではあるけど、そもそもこうやって人を物質みたいに扱うことに吹っ切れてるってどうなん?またジレンマや。)」
独立した様々な要素が複雑に絡み合っているように見えていた感情や状況には、その1つ1つに必ず対となる真逆の要素が存在している。その相補関係を1と見るべきではないか。そしてまた、その1に対する要素が永続的に生まれ、言語化できないほど壮大な事象となる。
「(こんなこと考えてなんの意味があるんやろう。でもきっと意味あるんやろうな。)」