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ズッ友

「ずっと友達だよ」とかの子は言った。
ずっと友達なのかとわたしは思った。
それ以上へ踏み越えてはいけないのか。
ダメか。
ダメだろうな。
「岡本二等兵!淡い恋の記憶に浸っている場合ではありませんよ!」
「なぜわかった」
「そこトラップ張ってます!」
「あ」
わたしは引っかかった。ここは戦地だって忘れてた。
良い天気だ。
死ぬならこんな日に限る。

みんな死ねばいいのでは。
実地で戦ってるやつはいいけど。どうせ死ぬし。
特に戦争させてるやつは優先的に死ぬべきだ。
でも、パパにきいたところでは戦争ってこいつとこいつとそいつとあいつがさせてるようなものじゃないらしい。

パパって呼ばれるのをパパは嫌がっている。
だから死んでもそう呼び続ける。

戦争なので、わたしは死ぬ。わたしが爆発四散するときにかの子が現れてくれる手筈だ。

「人の死なない小説?」とわたしは言った。
「うん」とかの子がうなずいた。
「人は死ぬでしょ」
「小説が始まってから終わるまでに死ななかったらいいんじゃない?」
「えーなにそれ、腹立つ」
「どうせ小説って全部は見せられないんだよ。言葉でこの世界とまったく同じものを創りあげようとしたら、埃の粒の一つを鼻から吸い込んだことまで、それを宇宙の全部の埃について書かないといけないから」
 そんなの知るか。わたしはかの子を書く。
 わたしがいいなって思ったかの子のぜんぶ、
 いいなとは思わなかったぜんぶをわたしは書く。

わたし、かのこ、わたし。
わたしの名前はかの子ではない。きさ子。それがわたしの名前。
茨の茂みのなか、白い繭でできた二人の「わたし」がかの子を両側から挟んでいる。
指先でほっぺたを遊ばれて、かの子はくすぐったそうにする。
茨を小さな黒い蜘蛛が這っている。
かの子の白い手をこっそり噛もうと狙っている、赤い目の蜘蛛。
そんなことはさせない。
「わたしたち」は全然気がついてないふりをしながら、蜘蛛を握りつぶす。
「どうしたの?」かの子が訊く。
「なんでもないよ」
「手に何かついてる」
 わたしが握った拳を開けてみると、紫の体液がべったりついていた。
「大丈夫?」かの子が顔を寄せて舐め取ろうとした。
「ダメ!」
「どうして? やっぱり危ないものなんじゃないの?」
「だ、大丈夫。『わたしたち』にとっては危なくないから」
「どうして?」
「だって『わたしたち』は……」
 かの子を挟んだ合わせ鏡。
『わたしたち』は初めからいなかった。
『わたしたち』に実像はなく、かの子の影として無限に続いていた。死ぬことはない。いくらでもかわりはいる。
 そんな存在になりたかった。

「わたしは元から生まれてなかったんだ」とかの子は言った。「だから死んだように見えても、死んでないんだよ」
「えー、それなんかずるい」
「いいよ、きさも死んでなかったことにしよう」
「死んでなかった?」
「あ、言い間違い、生きてなかった」
 でも、言葉も親と一緒で、最初に出て/入ってきたものが絶対的になってしまう気がする。
「死んでなかったことにする」とわざわざ言われるってことは、わたしは死んでいたのだ。

 わたしは死んでいた。
 で、かの子に見つかった。
 泥に汚れて這いつくばったわたしを、両手を細い膝のあいだに挟んだかの子が微笑み見下ろしていた。長くて細い髪の毛に、包まれてしまいそうだった、さわりたかった。
 こんな子がいるなら生きていけると思った。
「   ?   ?」なにか言葉をかけてくれてる。
 差し延べられた手を、汚してしまうことを恐れたわたしへ、かの子は赦しの笑みを与えた。
 緑の黒板で習った。
 許すはこれからすることを許可するってこと。
 赦すは犯された罪を赦すこと。
 かの子はわたしが罪を犯すことを許してくれたし、犯し終わった後の罪まですべて、先んじて赦してくれている。
 そういう微笑みだったから、わたしはかの子の手を取り、汚した。
「ごめんなさい」と震える声で言った。
「いいんだよ?」わたしの頭を抱いた。「わたしはあなたをゆるすことしかできないんだから」
「名前、きさ子っていいます」
「わたし、かの子」
「うん」
 かの子に手を取られ、草原の向かい風をかき分けていった。
 実のところ、かの子の手は少しも汚れなかった。
 でも、結果そうだったからオーケーってものではない。
 罪だと思わなければ、それは罪ではない。
 逆に言えば、罪だと思えばなんでも罪になる。
 汚した。とあのときわたしは思ったのだし、その罪の汚点は一生消えない。
 こうしてわたしが自分に背負わせ、縄でしっかり縛って落ちないようにした罪の、その重さがかの子への想いの強さだと思う。
 兄はそれを笑った。「お前は、無駄なことをするのが好きだね」と木の窓枠に腰掛けて言った。
「無駄って、兄貴に言われたくないよ。兄貴が好きなの無駄なもんばっかじゃん」
「俺は、無駄だとわかってて好きなんだよ。きさ子はそれが無駄じゃなくて、本当に何よりすごい、尊いものだと確信しちゃってるだろう」
「兄貴だって」
「いつまでも変わらず、絶対に尊いものなんてないよ。何もかも宝物で、同時にゴミだ。いろんなものをつまみぐいして、辛いことも楽しいこともあって、なんやかんややっていくんだよ」
「逃げだ!」
 わたしが勢いよく指さすと、兄は寂しそうな笑顔になった。「そう言われると、敵わないけど」
「そうだ、兄貴はそうやってずっとわたしに敗けてればいいんだよ」
 わたしは胸を張ってみせた。
「俺はお前が敗れて傷つくところを、いや、傷つくだけならいいけど、どうしようもなくなるようなところを、見たくないんだよ」
 兄は立ち上がり、わたしの肩に手を置いてから、そのまま歩いていった。
 先輩ヅラすんな気色悪い。

 じっさい、ずっと友達ってこと以上に素敵なことはない。
 何の実利を受けるでもなく。社会や自然のシステムを回すために規定された関係じゃそれはない。
 ただ一緒にいられて、手を叩いて笑いあって、腹を抱えて笑い転げて泥だらけになって、そんなまっさらな楽しいが永遠に続く。
「悲しいけどそんな人はいないんだよ」と眼鏡は言った。
 眼鏡は医者だと言われている。そのような格好をしているし、病院のなかを行き来している。看護師にも話しかけられている。
 でもだから本物の医者だって言い切れるわけじゃない。
 絶対は絶対ありえない。
 白い、ワンピースに似た服をわたしは着ているけど、それは病人が着る服だ。
 傷を負った帰還兵。心に? 体に? どっちでもいい。どっちにしたって病人扱いは変わらない。
 窓際のベッドで花に息を吹きかける。
 白いカーテンが心地よい風に広がる、今日は青空だ。
 青空は狂っている。
 自分の下で人間が人間の心臓を生で引きずり出して丸呑みにしていても、どこまでも晴れやかで、空っぽで、綺麗なまま。
 どんなに高く血しぶきが噴き上げられようと、空には一点の染みもつかずにいる。
「空まで届きそうだ」と人間が思っても、それは気のせいで、そこに空はない。
 わたしたちが見ているのは何だ?
 空の写し絵だ。
 人間に触れられないどこかに本当の空がある。

 戦場でわたしが学んだことの一つは、どんなことがあっても笑っている人間こそ狂ってるってことだ。
 泣き顔は真摯だ。泣き顔が狂って見えることは少ない。
 怖ろしいのは笑顔だ。
 血か肉か知らないけど、人間の内容物を顔とかにつけたまま立ち上がって、笑っている兵士の後ろに空があった。
兵士は空を背につけていた。
空は人形使いのように兵士を緩やかな支配下に置いていた。
ふたつは共生関係にあった。
 空がいてくれないと、兵士は生き延びられなかったのだろうし、兵士がいないと、空は地上に干渉できなかった。
 兵士はときどき空へ向かって俳句をしたためた。
 ふつう、戦場でものを書くなら、空の向こうにいる大切な人へ向けて書く。
 誰が空そのものへ向けて書くというのだ。 
 人間を捨てなければ生き残ることはできない。
 知ってるさ。

 あるいはわたしは敗残兵。
 また戦場に戻る。何度でも。死ぬまで。死ぬために。
 死んだ兵士だけがいい兵士だ。


 入学式のときからそうだった。
 体育館の、柵みたいな窓の外は木々の緑に埋め尽くされていた。
 林のように立ち並ぶ女生徒たちの白い靴下。
 地肌と靴下との境目で色ががらりと変わる。
 その境目がまるで無いみたいに白いのがひとつあって、自然に視線が上がった。
 校歌を口ずさんでいるあなたの顔を、わたしの目が射止めた。
 好きでもないものを歌わされていても、まるで口ずさんでいるみたいに見えたのだった。

 それからずっと気になっていた。
 何度か廊下ですれ違ってもいたんだよ。
 かの子はわたしと違ってすでに両脇を花に挟まれ、会話を咲かせていた。
 クソみたいな花。
 紫色のラフレシア。
 プールに浮かべたら、せっかく消毒した透明な水がどんどん紫に染められていく。
 わたしと話したほうが絶対いい。
 わたしはうつむいて、胸には緑のハードカバーの本を抱えた陰気な女だった。
 でもあなたさえいればと思った。

 赤いパチンコ屋の奥に暗い階段への入り口がある。
 そんなとこへ行くのはパチンコに興味がない人間だけだ。
 パチンコ屋にパチンコに興味がない人間はほとんどいない。
 わたしが自動ドアから入ってきて、誰にも気づかれていないと思いながら一直線にその階段へ向かっていくところを、細身のかっこいい女の人がタバコをふかしながら見ていた。
 その人はよく男に暴力をふるった。
 骸骨がその人のトレードマークだった。
 白い首筋に傷跡があった。
 そんなことわたしは知らずに暗黒物質でできた階段をのぼり、踊り場に大きな水晶球が置いてあるのを見つけた。大きくて青くて曇っていた。水槽玉のなかにはカエルが閉じ込められていた。わたしがもっと強かったら蹴り壊して出してあげられるんだけどねと思った。
 あのかっこいい女の人のつま先ならたやすくそれができた。
 でもわたしはあの人じゃなかったし、あの人はわたしじゃなかった。
 屋上から見る青空は背の高いビルたちに追い立てられて身を縮め、すぼまっていた。排気ガスと人いきれに晒され、死にそうな顔をしている。地上にあるそれらが自分のところまで届かなくても、見下ろしているだけで吐きそうなのだ。繊細な空。戦場の空とはぜんぜん違う。いろんな空がいるんだ。わたしは学んだ。
そしてかの子がいた。柵の前に立って、黒く長い髪がこっちへ旗のようになびいていた。わたしは取り憑かれたように手を伸ばしてふらふら近づき、そして、髪に触れる寸前かの子が振り向いた。
「おはようきさちゃん」笑顔だった。
「え」
「岡本きさ子ちゃん」
「わ、わたしたち、どこかで会いました……っけ?」
「いつでも会ってるよ」
 いつでも。
 そうだ。そんな気がした。
「そうだね」
「うん」元気よくうなずいて、かの子は向こうを指差した。
 背の低い高速道路が架かっていた。
「……どうしたの?」
「なにも。指さしてみたかっただけ」
「そう」わたしの顔が笑みをつくった。かの子に比べるとすごくいびつな笑顔だ。恥ずかしくなった。
「大丈夫だよ」とかの子が言った。「きさの分もわたしが笑ってあげるから。わたしたち、二人で一つでしょ?」
「それは違うよ。嬉しいけど、恐れ多い」
「友達に恐れ多いとかないよ」
「ある。絶対ある。かの子の方が本物。わたしは虚像。これは絶対譲れない」
「逃げたいんだ」
「なんとでも言って」
「もう。変なところ頑固だよね。それでいつか身を滅ぼすよ」
「いいよ」
「ほらまた」
 すねてうつむいたわたしの頭をかの子は撫でた。頭を撫でてくれるのなんてかの子だけだ。わたしが撫でるのを許せるのもかの子だけ。パパや兄貴に撫でられるなんて死んでも嫌だ。お母さんがいたらどうだったんだろう。
「きさ子のお母さんはどこへ行ったの?」
「東北の茶色い湿原を旅してるんじゃないかな」
「旅人なの?」
「空と手がつなげるんだって。友達だから」
「友達なら、わたしともつなげるね」
 つないだ。
「友達どうしで手つなぐのってありなのかな」
「女の子どうしならありだと思うよ」
「男の子どうしじゃダメだし、男の子と女の子でもダメなんだね」
「わたしは、いいと思うけど。世間じゃダメなんだろうね」
「世間」
「じろじろ見てくる人たちのこと」
「放っといてくれたらいいのに」
「だからお母さんは旅に出たんじゃない?」
「そっか。わたしもいつか出るのかな」
「そのときはわたしも連れてってね。どこでもついていってあげるから」
「ほんとうにどこでも?」
「うん」
「地獄でも?」
「地獄、行きたいな」
「連れてくよ」
「難しいと思うよ?」
「大丈夫、たくさん人、殺すから」
「そう」かの子はふふ、と笑って掌でわたしの輪郭を包んだ。かの子の白い手でそうされると、自分も白い花になって光ってるような気がして、わたしは目をつむり静かな満足に浸った。
たくさん人を殺そう、と思った。

    猫の性器には棘がついてるらしい。
 わたしの股間にもそれが生えている。
 あるとき更衣室でズボンの中を覗いてみて、気づいた。
 あ、生えてるじゃん。
 誰もいないのを知ってて辺りをうかがった。
 わたしの股間はズボンのなかの生暖かい薄暗がりで汗をかいていた。
 いや、熱源はわたしの体だ。
 じぶんが発した熱でじぶんを苦しめている。
「そういうの人間って感じがする」自分の膝に頬杖をついたかの子が言った。
 学校の屋上の縁に腰かけたかの子は、涼しい風に吹かれていた。後ろに青空をひとりじめにして、黒い長い髪をぱらぱらと揺らしている。
「わたしに性器があるのはいいの?」
「ゆるすよ。」
 かの子が両手をわたしへと延べる。
 わたしはもう引きずりこまれるようにその両手に抱かれるため歩いていく。
「        !?」
 ずっと後ろの遠くで何か聞こえる。
 どうでもいい。
「    !」
 ……
「    !!」
 ……
「    !!!」
「なんだようるせえなあ!!!」
 わたしらの蜜月を邪魔しやがって!
 自分で振り向くのと後ろから肩を掴まれて振り向かされるのが同時だった。
「……なんだ、委員長じゃん」わたしはその顔を見下ろして言った。「どしたの? おぐしがぐしゃぐしゃだけど」
「どうしたのじゃないよ、いま、いま――」
「え?」
「……いま……」
「なんだよいまいまうるせえな。新種のセミかよ」
「だって、いま……」委員長はうつむいてしまった。
「なんだよ……」
 振り返ると、かの子はいなくて風だけ吹いていた。落ちたのかもしれない。それか、空に溶けちゃったか。
「興が殺がれた」
 わたしは屋上を後にしようとする。
「お、岡本さん!」
「……なに」
「……なにか、悩みとかあったら、わたしに言ってよ」
「悩み? 何言ってんの? わたしは毎日ハッピーだよ、ここんところ」
 ドアを閉めた。

 人間とか猫とか、生殖のために苦しまなきゃならないのはなぜなんだろう?
 行為の最中の快楽の顔は、性の快楽を知らない子供には苦悶に見える。
 母親の歪んだ顔を見て、勇者になって駆けつけたところ両親に揃って笑われる少年は後を絶たない。
 悲しいことだ。
 大人になったらわたしは、そんなかわいそうな少年たちを優しく慰めるシスターになるんだ。
 もちろんかの子と二人で。
 それなら皺だらけで真っ白髪のおばあさんになるのだって悪くないし、むしろそっちの方がいい。
 教会には電気がないけど、窓から白い光が差しこむから大丈夫。
 その光は明るすぎない。
 傷つき、傷つきながら流浪の旅を続け、どこにも居場所がなくなった少年が最後にうちの教会へたどり着き、その入り口に立ったとき、ここは自分には眩しすぎると思って立ち去ってしまわないように。
 もし明るさに顔をそむけたらその先には崖と海しかないだろう。
 見上げれば薄いかすれた青空をずっと向こうへ飛んで行く白いかもめの軌道に視線を誘われて、操られ人形のように一歩、一歩、足が前へと動いていく。
 波が打ち寄せ砕ける崖の下で、ばらばらの少年マネキンたちが待っている。
 そんな光景を起こらせてはいけない。

 がんっ! と音を立ててミシンは止まった。
「あー、壊しちゃったんじゃない?」
 机に座っているかの子が言った。
 窓は開いている。電気はついていない。
 二人だけで家庭科室にいる。
 つるつると控えめに輝いているミシンの白い肌が好きだ。
 好きなのはわたしか、かの子か。
「わたしだよ」机から飛び降りながら、かの子が言った。
「でも、わたしもなんだか好きなような気がする……」
「そりゃわたしに影響されたんだよ」
「いやわかんないよ。かの子の方が強くそう思い込んでるだけで、もともとわたしの方が好きだったのかも」
「基本思い込み強いのはきさじゃん。わたしはなにも思い込んだりしないよ」
「わたしのことも?」
「うん」
「なんで。好きならちょっとは思い込んでよ」
「友達のこと思い込んだりしないよ普通? 安心してすべて預けてるから」

 わたしはわたしの股間に生えている小さな針をかの子に刺したいんだろうか?
 そうしてかの子をわたしの傍に縫いつけておきたい?
 ずっと?
 真っ白なかの子の体から真っ赤な血が流れる。
 かの子は薄く微笑んでいる。
 怯えているのはわたしの方だ。
 女になったかの子がベッドの上、四つん這いで近づいてきて、右手をわたしの輪郭に添える。
 何を言われるんだろう。
「わたしを食べて」?
「殺して」?
わたしがかの子を殺す?
上向いて開かれたかの子の口へわたしが針を飲ませる?
震えているのはわたしの手。
かの子の喉はざくろみたいな赤色で、ひだひだしていて、ワニの喉みたいだ……
「こわい」
「こわくないよ」かっぽり口を開けたままかの子は喋る。どうやって喋ったんだ? 息の多い声。まるでかの子じゃないみたいな声。「わたしたちの声には」とかの子が言う。「たくさんの人の声が混じってる。きさも知ってるはずだよ」
 うそ。
 わたしは思わず自分の喉笛を押さえる。
 掌へ、上下する息の音がかすかに伝わってくる。
「いやだ」押し殺したような声が言う。「わたしとかの子のあいだに誰かの声が割り込むなんて。いや」
忘れよう。
この夜は、永久に、封印しておくことにしよう。

 また、わたしは死んでいた。
 ぶざまに地面に這いつくばって、泥だらけになっている。
 かの子が見つけて、言った。「何があったの?」
「よく見つけたね、こんなとこ」へらへらしながら、わたしは言った。
「においでわかるよ」
「えっまじでそんな臭い?」
「きさ子はお伽話に出てくる銀色の細長い魚みたいなにおいがする」
「魚て」
「でもお伽話の魚だから生臭いんじゃないよ」
「ようわからん」
「わたしはどんなにおいがする?」
 かの子はちょうどわたしへ覆いかぶさろうとするように風上に立っていた。わたしは鼻を動かした。風で波紋みたいに広がるその色がわたしには見えた。
「桜だ」
「桜?」
「うん」
「ちょっと良すぎない?」
「でも、ほんとにそうなんだから仕方ない」
「そうか。それじゃあ仕方ないね」
「うん。世の中、仕方ないことばっかりだ」
「らしくないね」
「そうかい」
「うん。……で? なにがあったの?」
「……はああ」わたしは息を吐いた。「……なにも。なにもないよ」
「……きさは、わたしになにも教えてくれないんだね」
「知る必要ないから」
「話してほしい」
「ぜんぶ知ってるんでしょ?」
「『知りたい』と『話してほしい』は別だよ」
「……言うようになったね」
「誰のおかげかな?」
 二人とも小さく笑った。
「……あいつらにやられた」
「誰?」
「名前、わからない。面識もないやつら。学校の」
「……怖いね」
「もう慣れた。ああまたか、はいはい、とっととやっちゃってって感じ」
「どんどんひどくなってる」
「最近わたしへらへらしちゃってるからね。つかまえられて、殴られてるとき。わざとじゃないんだけどね」
「なんで笑っちゃうんだろうね」
「うーん、諦めの境地みたいな? ダメだこりゃ、って感じ。笑いたくなるでしょ? そういうとき」
「そうかなあ。わたしはたぶん、無表情だと思う……」
「かの子は普段笑ってるからねえ。全体で見るとバランスが取れるんだな」
「どういう理論?」笑った。
 その笑い声をもっと聞きたかった。もっと笑ってほしくて、わたしはずりずりと匍匐前進をした。
「わはは」かの子はお腹を抑えて体を折った。「ゾンビだ」
「ゾンビ。……そうだよ、わたしは、不死身の兵士。何度も、何度撃たれて倒れても、こうやって這って進むんだ、敵の足首を掴むまで。引きずり倒して、皮膚をずたずたに引き裂いてやる。わたしと同じにしてやる」
「頭撃たれたら死ぬんでしょ?」バーン、とかの子が両手で銃を撃つ。
「死んだ! と見せかけて、撃たれたところに花が咲いてるんだよ。よだれみたいに脳漿を垂らしながら」
「ゆかいなゾンビだね。たくさん並べて、マシンガンで撃ちたいな。そしたらポンポンポンポン! ってお花畑になるんでしょ?」
「いいね、いいね」
 泥だらけの顔で笑った。ほんとうにわたしは何度でも生き返れる。
 頭を撃たれたゾンビは死ぬ。
 救われない心が殺されて、救われなかった想いは花になる。
 どろどろした怨念からつくられた花。
 それはゾンビの肌と同じ、でも澄んで翡翠のような色をしている。
 遊びにきた子供たちに自分の顔から花を摘んであげることもできる。
 摘んだらゾンビは倒れる。本当に死んだのだ。
 それでいい。
 受け取った子供は笑顔でバイバイをして走り去っていく。
 ゾンビも最後の力を振り絞って枝のような手を振り送る。途中でその手は止まる。長い年月が経ち風に吹き崩され砂になって飛んでいくまでは、永遠に固まったままだった。
「一回こっきりのアンパンマンみたい」
「でも肌の色はカビだよ」
「じゃあカビパンマン?」
「それふつうのかびるんるんより嫌だな……」

 土に汚れた制服のかの子が路地に這いつくばっていた。
「何をされたの」
「なんでもないに決まってるよ」
 路地の向こうでピンクのネオンが観覧車みたいに回っている。ゆっくりと、とてもゆっくりと。その遅さはわたしに狂気を感じさせる。
「壊れ、ちゃうの?」
「壊れる? わたしが?」ふふ、とかの子は笑った。「わたしは壊れたりしないよ。わかってるでしょ? 初めから出来てないから、壊れようがない。壊れるとしたらきさの方だよ。大丈夫? わたしのこんな姿見て、きさは壊れそうじゃない?」
 ゆらゆら揺れている。
 わたしの輪郭線が二重に三重にカラフルなネオンの光になって揺れている。
 うっ、と呻いてお腹を抑え、片膝をついた。
「吐く?」とかの子が訊いた。
 わたしは黄色い吐瀉物を吐いた。ハアハア呼吸をしてから、口を拭った。
「もうわたしたち、同じくらい汚いね」かの子はにっこり笑った。
 わたしは汚れてない方の手でかの子の手を取り、ぐんぐん引っ張ってスーパー銭湯へ行った。
 湯気でいっぱいだった。
 わたしたち二人の他には、植物のような精神をしたおばあさん一人しかいなかった。
「ここ潰れんじゃないかな」
「きさ姿勢悪い」
 わたしは浴槽の縁に片膝を立てて足を開いて座っていた。そしてタバコを吸っていた。
「ダメだよタバコとか」
「湯気に紛れるから大丈夫」
「そうじゃなくて。わたしが代わりに吸うから貸して」
「は? それこそダメだよかの子は本体なんだから健康を害しちゃ。わたしならいくら吸っても大丈夫だよ」
「きさ、鏡像はわたしの方なんだよ」
「…………」
「…………」
「二度とそんなこと言わないで」
「……わかった。ごめんね」
 わたしははっとした。かの子に謝罪をさせるなんて。
「ごめんねかの子、わたし頑固で」
「いいよ、ゆるしてあげるから……」
 かの子は顔を傾け、斜めに視線を落としていた。
 突然おばあさんがカパカパと洗面器みたいな音を立てた。
 一瞬の間のあと、わたしたちは顔を見合わせて笑った。

 小さいころ、熱を出しているときに、よくその夢を見た。
 暗闇に、なにかとても大きな、歯車でできたウェディングケーキみたいなものがある。
 それは動いている。とてもゆっくりと。
 その大きなもの自体は怖くない。ただ、動きの遅さがわたしという人格を崩壊させようとしているみたいで、怖くて怖くて、もう無理、頭がおかしくなってしまうというところで目が覚めた、汗びっしょりのわたしを目を閉じたまま撫でてくれていた、
 目を閉じたママ。
 暗がりのなかで微笑みを浮かべている。
 そこにいたの。
 その記憶を思い出した時、初めてわたしはお母さんに会った。
「わたしのことが好き?」とわたしは訊いた。
 眠っているママは答えない。
「わたしのことが好き……」
瞼がゆっくり下がっていった。

校庭の外れにある手水鉢に空が映っていた。水に映された空には色がなく、黒く静かに波打っていた。その日の風は涼しかった。
わたしの後頭部が掴まれ、わたしの頭は水のなかへ突っ込まれた。もがいていると水の向こうであいつらの笑い声が聞こえた。そのときあいつらは三人でできていて、一人、少し離れたところで手を叩いて笑っているやつがいた。わたしたちのいる辺りは雲で陰になっていた。
「ごめんねきさ、わたしのせいで」
「いいよ」水の溢れた口元を拭いながらわたしが言う。「あいつらいつかボコボコにしてやりたいと思ってた。かの子が踏ん切りつかしてくれたんだ。やるよ」
「うん……」どうしようもない男の人を優しく見守るような困った微笑をかの子は浮かべていた。

かの子を守るため、わたしは荒っぽくなる。
いつでも絆創膏を貼っている。
タバコも吸う。
地べたに座って吸う。放った吸い殻を靴が踏み消す。わたしの靴ではない。誰だか知らない敵が見下ろしていた。わたしはそいつを見上げたまま二本目を吸い、そいつの顔へ向かって煙を吹き上げてやる。
やがてそいつの手が煙を突き破ってわたしへ伸びる。
 しゃがんだわたしはニタアと笑い、立ち上がる。
 戦いの日々だ。
 かの子のために振るう暴力を、敵の血に汚れた自分の拳を、わたしは愛する。

もちろんかの子は守られたいなんて思ってない。
そんなことされたって迷惑だって思ってる。
でもわたしに花を持たせるため黙って見守ってくれてる。
わたしはわたしを守るためには戦えない。
けど、わたしよりずっと価値のあるかの子を守るためなら戦える。
戦いたい。
かの子に迷惑をかけてでも、かの子のために戦いたい。
これはわたしのエゴだ。
 わたしは軍服を着て、抜身の剣を持っている。
 密林を進む。
 けばけばしい赤と黄色の、巨大なプティングみたいな生命体が現れる。
 そいつを斬り捨てる。
 紫の体液があふれて、広がっていく。
 紫に満たされたそこは、魔女の世界だった。
 魔女は骨ばった手でわたしの輪郭を包み、なにか囁く。
 何を言っているのかわからない。
 魔女の口から出ているそれは、黒い煙のようなものにしか見えなかった。
 わたしたちが普段話している言葉は、何色なんだろう。
 そんなことを考えてはいけない。
 その気付きから、魔女へ堕ちる道が始まる。
 魔女の手は骨ばってるというより骨そのもので、顔だって長く尖った骨に、緑の光る玉を埋め込んで目としてあるだけ。
 一発殴ったら、ばらばらと崩れてしまいそうだ。
 でも、戦場ではぐれた兵士を敵も味方も関係なく受け入れるのは、魔女だけだった。
 兵士たちは、結局のところ人殺しで、故郷に帰っても、人殺しを受け入れてくれる場所はほとんどなかった。
 誰も人なんか殺したくなかった。
 でも誰かがやらなきゃいけなかったからやった。
 本当はやらなくてもよいことだった。
 それだってみんな知っていた。
 知っていたけど忘れていた。
 放っておけば人は人を殺す。必ずそういう個体が出てくるのだと聞いた。
 黒い、ぼやぼやとした、水に溶けた墨の影のような機械。
 そのパーツを埋め込まれた生物は、他の生物を殺す。
誰がそんなものを埋めこむんだろう?
魔女? 神様?
 あるいはそれは成長型の機械なのかもしれない。
 はじめは色がなくて、何色になるかわからないけど、生まれてからの環境や、周りの生物に与えられた影響によって、形状を、性質を、色を変えていく。
 自分の胸を抱えるように押さえた。そこにあるはずの黒い機械が体の外へ溢れ出してくるのを必死にとどめようとしていた。
「そんなもの、出してしまったらいいじゃないか」と誰かが言う。
「いや、でも、反射的に止めちゃうでしょ、内臓だよ?」
「しかし、今のあんたにはわかってるだろう、そんなもの、なくなってしまったほうがいいんだよ」
 改めて、抱えているそれを見下ろした。
   黒く、うごめいていた。
「大丈夫かな、これなくなって、倒れて、歩けなくなったりするんじゃ……」
「もしそうなったなら、あんたはそのまま二度と動けなくなった方がいい人間ってことだよ」
 わたしは顔を上げて、相手を見た。
 知ってたけど、それは魔女だった。
「あんたは戦場だけが居場所なんだ」と魔女は告げた。「戦場にしかあんたの安らぎは、情熱は、存在意義はなかった」
 かの子、来て。
 足元が黒い沼になっている。沼の中心にわたしの足は食われている。
 かの子、来て、助けて。わたしが正しいってことを証明して。
 かの子は来ない。
 太陽だけが眩しく、いま、翼竜の影が日差しを遮った。
 寒い。

 学校の、人目につかない日陰で、さなは小突き回されていた。
 通りがかったわたしと、さなは目が合った。
 小突き回しているやつらが、わたしを認識し、「なんだよ」と言った。
 仕方がないな。
 わたしは歩いていって、そいつらをボコボコにした。
「ありがとうございました」とさなが言った。
 わたしはさなに手を差し伸べたりせず、そのまま立ち去ろうとしたら、なんとなく予想していたとおり、後ろから呼び止められた。
「ふ~……」タバコをくわえたわたしは、髪の毛をくしゃくしゃしながら、開いた口の隙間から息を吹いた。

 さなは年下だった。驚いたことにいつのまにか、わたしは上級生になっていた。手足が長くなっていた。色は浅黒くなった。体の内側の空洞をタバコの煙でいっぱいにしたせいかもしれない。勉強はもう何もわからないかわりに、学校の人目につかない場所ならだいたい全部知っていた。
 いろんなところが傷だらけで、パンクの人々がそこかしこを安全ピンだらけにしてみせたように、絆創膏まみれになっていた。
 部屋には絆創膏の箱が積み上げてあった。普通の高校生なら、コンドームが積んであるところだろうか。
 部屋でタバコを吸ってると、兄貴に取り上げられた。取り上げたそれを兄貴が吸った。
「こうされたくなかったらやめろ」
「間接キスって言いたいの? べつにどうでもいいよ。それでわたしがどうにかなるって思ってるとこが気色悪い」
「お前のためだけじゃないんだよ」
「は?? お家のためかよ」
「違う」兄貴は親指で左を指した。「さなちゃんきてるぞ」
「ふーん」
「ふーんじゃねえよ、早くいけ」
「来すぎなんだよあいつ。わたしの自由は」
「この雨んなかわざわざきてくれたんだからさ」
「知らないよ」
「貴重な友達だろ」
「かの子がいればいいよ」
「かの子だけじゃ世界が狭まるよ」
「狭くていいよ。なんで広くなる必要があるんだ、面倒くさい」
「どんどん生きにくくなるからだよ」
「うるせーなー」
 わたしは畳に大の字になった。そうして暗い木の天井を眺めていると落ち着いた。そのまま眠ろうとした。
「おい。ちょっと。……ハア」
 兄貴の足音が階段を降りていった。ガラガラ音がして、少しの喋り声のあと、増えた足音がのぼってきて、頭の近くに落ち着いた。
「きさちゃん、わたし今日、誕生日なんだ」
「そうだっけ」
「うん」
「おめでと」
「ありがとう。……それで、欲しいものがあるんだけどね」
「んー」
「かの子ちゃん」
「は?」
 見ると、さなとかの子が正座していた。
かの子は白くて、光っているみたいだ。
「なに?」と微笑むかの子に、さなが言った。
「あのね、……きさちゃんを、わたしにください」
「は?」と言ったのはわたしで、かの子は黙って微笑んでいる。そのまま、わたしを見下ろした。え? なに? その視線は。それからさなへ向き直り、「いいよ?」と言った。
「……は?
 いいよって何?」
「…………」
「おい、答えろよ」
「きさちゃん」
「さなは黙ってて」
「……きさちゃん、わたし、きさちゃんにはわたしの用心棒になってほしいの。かの子ちゃんのかわりに。かの子ちゃんはもう大丈夫だからって――」
「お前、なんだそれ。厚かましい!」
「そうだね。でも、きっときさちゃんにも必要なこと、ていうかきさちゃんにこそ必要なんだよ」
「何言ってんの? 頭大丈夫?」
「うん、大丈夫」強い目の光と笑顔でわたしを射す。何なんだこいつは? 意味わからないけど腹が立つ。
「かの子、何なの、どういうつもり――」
 かの子は微笑んでいる。少し首を傾けて。鉄壁の微笑みだ。
 気分が悪い。
「誰がそんな笑顔を教えた」
「初めからそんな笑顔だったんじゃないか?」兄貴が言った。
「そんなことない。かの子のこんな顔、初めて」
「お前の見え方が変わったってことだよ」
「そんなこと」
「写真に撮って残しておいたらよかったな」
「かの子は写真が嫌いなの」
「そうか。そうだろうな」
「なんなんだよ! 口挟んでくんな!」
兄貴は鼻で笑いながら部屋を出て、階段をのぼっていった。
 さなとかの子が同時にすっくと立ち上がった。
「何?」
「もう帰るね」「わたしも」
「ちょ、ちょっと待って。かの子は特に」
 しかし、二人とも強引に去った。わたしは少し暴れてみせたけど、ダメだった。機械に運ばれているみたいにびくともせず二人は出て行った。怖かった。
 ぐったりと床に倒れた。
 何なんだ。何なんだ。何かがおかしい。さなだ。あいつのせいだ。あいつが出てきてからおかしい。均衡が取れてない。くらくらする。
 この部屋はおかしい。初めからおかしかった。
 机と本棚以外何もない畳の六畳一間がわたしの部屋、二階にあって、階段と直に接している。ふすますらない。兄貴やパパの部屋は三階で、階段をのぼる奴らにわたしの部屋は見放題。プライバシーも何もない。
 わたしが奴らに見せていいのは、机に向かって勉強している背中だけ。
 死ね。勉強なんかしてたまるか。
 だからわたしはかの子を書く。
 そうだわたしはかの子を書く、それしかないんだった。

「もう、わたしに話しかけんのやめて」
 廊下でわたしの袖に触ろうとしてきたさなへ言った。
「もういじめられてないじゃん。他にいくらでも友達いるでしょ? これ以上わたしと関わってたらむしろ損しかないじゃん、あんた」
「……そういうことじゃないよ……」さなはわたしの黒いセーターの袖をつかんでいた。「わたし……きさちゃんのこと好きだからさ……」
「好きってなに?」
「え?」
「どういう好きなの?」
「そ、……大切で特別な、友達」
「友達じゃん」
「え?」
「わたしはかの子のこと、女の子として好きだよ」言っちゃった。「それに勝てるの?」
 さすがに硬直したさなを振りほどいて歩き出す。
 女の子として好き。
 歩いても歩いても、その言葉がしつこく後からついてくる。
 わたしは逃げ切りたかった。かの子とわたしの関係を言葉に定められたくなかった。可能なら、いつまでも。早く歩きすぎて息が切れてきた。言葉はまだ、ついてくる。いつまでもついてくるのだろう。わたしに脳みそがあるかぎり。
 脳みそがなくなってもわたしはかの子を好きでいられるんだろうか?
 いられる気がする。
 脳みそなんかなくなればいいんだ。

「なに読んでるの?」かの子がわたしに訊いた。
「脳みそを溶かす方法」
「なにそれ、そんなの本にのってるの?」
「意外と」
「わたしのせい?」
「まあ、いろんな意味でね」
「そっか。わたし、いないほうがいい?」
「バカじゃないの。ずっといてほしいから悩んでんの」
「きさは、わたしにだけは素直だね」
「そうだよ、特別だから」
「きさのほうが特別だよ」
「…………」
「きさにとってのわたしより、わたしにとってのきさの方が特別。絶対」
「勝手に言い切らないでよ」
「特別さの種類が違うって言いたい?」
 かの子は微笑んでいた。その微笑みは親しげだった。
 かの子はいつでもにこにこしてる。
 けど、笑顔は一つじゃない。
「きさは笑わないよね。全然」
「かの子がかわりに笑ってくれるから」
「じゃあ、わたしがいなくなったら笑顔になれるんだ」
「かの子!!」
「ごめんなさい」
「食べるよ」
「はは。食べちゃって」困ったような笑顔でかの子は言った。
 本当に食べてしまおうか。
 ダンゴムシみたいに丸まったわたしの人差し指が、涙を拭うようにかの子の前髪をかき分ける。
 柔らかい、さらさらと流れる。
 細い髪の毛の一本一本についている埃まで克明にわたしには見える。
 わたしは最強だ。最強の生物だ。
 四つん這いのわたしが、目玉をこぼれ落ちそうにさせながらかの子へ迫る。
「きさ、怖いよ」とかの子は笑った。全然怖くないくせに。
「かの子に怖いことなんてあるの?」
「あるよ」
「なに」
「きさが消えること」
「……わたしが消えるときは、かの子も一緒だよ」
「一緒かどうかの話をしてるんじゃないよ。きさが消えること、ただそれが悲しくて、嫌なの」
「それは仕方ないよ」
「仕方ないのかな」かの子の右手がわたしの頬を包んだ。「永遠に生きてよ。そしたらわたしもずっと一緒だから」
 わたしの左目から涙が流れた。

 今日も、わたしはかの子を書く。書き留めようとする。
 桜の花びらは耐える素振りも見せず悠々と風に流されていく。優しくて生ぬるい気弱な風と、花びらが手をつないでいるのが見える。
 たいしたことない彼氏と安易にセックスをしてしまう同級生たちみたいに散っていく。
 彼女たちが花びらならわたしは幹だ。
 ごつごつして、やせ細ってるけど風くらいじゃ折れなくて、基本誰からも見向きもされない。
 かの子は風の手に触れられない透明な花びらだった。
 純粋概念としての花びら。
「わたしは生まれてなかったんだよ」。
 そうだ、だから永遠に汚されない。
 わたし一人で汚れていこう。
 堕ちたい。かの子のために。
 なんだか髪の根元に澱が溜まってきたような感じがして、視線を上げると窓の外はほとんど白に近い曇り空だった。
 わたしの網膜が乳化してるのかもしれない。
 薄い白い天使の羽根が、窓の前を横切って落ちていった気がするけど、背景が似たような色だからわかりにくくてわからない。
 窓のそばに立ち、見下ろすと茶色い子犬が見上げていた。窓越しでわたしの視線に? 足音に気づいたのだろうか? 目に喜びの光を宿して、しっぽをぶんぶん振っている。
 それがおまえの本物の喜びを証しているなどと、わたしは思わんぞ。
 と頭のなかで言った。犬に言葉は伝わらない。表情は伝わるのかもしれない。何にも伝わってなかったらいい。
 芝にしゃがんだわたしは子犬の頭を挟んで目の前で、「しねしねしねしね」と言っていた。透明な小粒の春雨が降っていた。かの子みたいだと思った。
 空に晴れ間がさした。どこか森のなかの開けたところで、黄色い花々がふわっと膨らんだ。白いワンピース一丁のはだしのかの子が、両手を下ろした翼のようにして踊りはじめようとしていた。
 わたしは犬を放って階段を駆け上がった。変な花柄の傘をつかみ、急いで外へ飛び出した。
(かの子! わたしが行くまで待ってて!)
 わたしの電波はかの子に通じただろうか?
 通じたはずだ。
 通じている。
 かの子は全然怒らない。
 すべてゆるしてくれるんだ。
 それがかの子の存在意義。
 かの子は遺跡の白い円柱につかまって斜めっている。その顔に、腕に、鎖骨のあたりに光が降る。光は鎖骨のくぼみに溜まって、溶けたバターみたいに黄色くなる。かの子の上体が傾くと、黄色い液体は何かへ注がれるように一筋になって落ちる。タイル張りの地面にぶつかって飛び散った。近くにいた蟹にかかった。蟹は目をぱちくりしていた。
「かわいい」曲げた人差し指の関節で、かの子は蟹の目の黄色い涙を拭おうとした。
 ダメ!
 はさまれてしまう!
 引きちぎられてしまう!
 破ったかの子の白い肌を蟹が食べる。
 かの子は微笑んでゆるしている。
 ダメ!
 世界のすべてがかの子に牙を剥く。
 そうしてズタボロになったかの子にゆるしてもらいたいのだ。
 あちらこちらに穴が空き、脇腹を持って行かれ片目は黒い空洞になったボロボロの人形のようなそれでも微笑んでいるかの子に頭を撫でてほしいのだ。
 クソ野郎どもめ。
 暗いところでその暗黒と溶け合ったわたしがかの子を後ろから抱く。
 かの子は目を閉じてうつむき、胸元に持った一輪の花へ微笑みをくちづけようとしている。
 わたしに抱かれたことにかの子は気づかない。
 わたしの涙がかの子の肩に落ちるけどかの子はびくともせず微笑んでいる。
 それでもかの子はわたしのものだった。
 かの子の前に吹き溜まっている世界の糞どもの、闇に蠢く姿がわたしには見えている。
 かの子は目をつむっているから知らない。
 それでいい。
 汚いものは見なくていい。
 わたしがあなたの鋏になり、あいつらを全部切り裂いてやる。
 あいつらが飛沫をあげて切り裂かれ、その断片が放り投げられていくあいだも、あなたはただ手のなかの花を愛でていればいい。
 すべてが終わって静かになる。
 ようやくわたしはあなたの前に跪く。汚れた手を差し伸べる。
「どうしてこんなに汚れてるの?」
 いまやわたしはあなたの目の前にいるから、目を閉じたままでもあなたの目には見えていた。
「触らないで」わたしの手に触れようと近づいてきたあなたの手へわたしは言った。「言葉で濯いでくれるだけでいいの」そして目を閉じた。
 あなたの手はわたしの額の上にかざされた。
 あなたの口から光の言葉がもたらされ、わたしの顔を涙が伝った。
 全自動的にそれは起こった。
「これでいいの? きさ」
「ここでは名前、呼ばないで」わたしは目を閉じたまま、恍惚に浸る演技を保ちながら言った。
「なんて言ったらいいの?」
「あなた」
「あなた? ……なんだか懐かしい響きだね」
「懐かしくないよ」
 あなたにとっては昔なのかもしれないけど、わたしにとってはこれからのことだ。これからにしたいんだ。
「だから、呼んで。あなたって」
「あなた」
「ああ!」わたしは崩折れた。
「もう、何してるのきさ」
 くすくす笑うかの子を無視して、わたしは汗を流しながら演技に浸っていた。草の揺れる音と虫の立てる音がうるさい。
 浸りすぎて、木陰からの視線に気づかなかった。
 かの子との空間に差し入ってくるものに対しては野生動物のように敏感なわたしが。
 一生の不覚を犯した。


「私は君のお父さんの友人なんだ」とその男は言った。
「父に友達なんかいないと思うんですけど」
「なぜ?」おちょくっているような、ムカつく笑みだ。無駄にぽてっとした唇、禿げあがった前頭葉から頭頂。
殺したい。
 ずずずー、とグラスに刺さったストローで氷の溶けた水を啜ってから、わたしは答えた。
「あれは他の人間に興味がないからです」
「それでお母さんも逃げてしまったと?」
「…………」
「君も友達は少ないみたいだね」
「……帰ります」
「悪かったよ、……かの子ちゃん」
 わたしは停止した。
「ああ間違えた、きさ子ちゃんだったね、君の名前は」
「…………」
「綺麗な子だね、かの子ちゃんは。近くに隠れているのかな?」
 わかった。
 つながった。
 このあいだ学校で聞いた噂。
 こいつ。
 かの子を犯すつもりだ。
「でも、きさ子ちゃんも負けじと綺麗だ」異様に潤った瞳がわたしを見上げた。服の下を視線で、妄想でまさぐられている。寒気がする。
 でも引いてはいけない。
 絶対に!
「ありがとうございます。でも、かの子の方が綺麗ですよ。
 会わせてあげましょうか」
「本当かい?」
「はい。
 あなたのおうちへ、連れて行ってください」

 夜のベランダで仰向けに寝て、手をつないで顔を向きあわせていた。
 打ち上げ花火が横から照らした。
涙に濡れた互いの笑顔だけを映して、触りあって確かめていた。
 こんなに心のぴったり重なる人は、これからもこれまでももう現れるわけがなくて、これがずっと失われなければいいのにね、
 ずっとをずっとにするには、失われる前に終わらせるしかないのかな?
「一緒にしぬ?」
 うん、は声にならなかった。
 幸福にかき消されてしまった。
 いつのまにか花火も終わって、青い夜が広がり、しん、という音が押し寄せてきた。

 その部屋の水色の浴槽には死体が寝ていた。
 緑の斑点がある黄色の死体が仰向けに寝ていた。
 裸で男で目玉は白い泡か電球のようだった。
 口はひょっとこみたいな形だった。
 かの子とわたしが浴室へ入ってきて、カーテンを開き、死体を見下ろした。
 赤いサイレンが回りながら夜を近づいてきていた。

 少女を買っていた男がいました。
 買っていたし飼おうともしていた。
 男は死体になりました。
 おしまい。
 とわたしは供述した。

 裁判は長かった。
 珍しいことに窓のある法廷だった。大きくて長い窓たち、並んでいると躾の厳しい女中や女教師を思わせた。窓の向こうは灰色の世界で雪が降っていた。ときどき男の子がやってきて窓越しに何か伝えようとしていた。ジェスチャーはわけがわからなかったし、クラッカーとかワニのおもちゃとかも使っていたけど余計わからなくて、スケッチブックに何か書いてきたけど見たこともない文字でわからなかった。
 あの子は何を伝えようとしたんだろう。
 そんなに必死なのに、窓越しでしか接触する気はないらしかった。
 窓越しじゃなきゃダメな理由があるんだろうなとわたしは思い、その理由について思い巡らすことはしなかった。
 法廷は明るかった。見上げると照明がとても強く天井は高く、わたしというものが体から吸い上げられ気絶しそうだった。
 わたしは背中がだんだん曲がり、曲がった背中に雪が積もった。
 そしてかの子も死んでいた。
 殺された男のことなんてどうでもよかった。
「かの子を、看病したかった」「かの子のお嫁さんにしてもらって、病床の脇に置いてほしかった」「そのために、来る日も来る日もりんごの皮むきを練習してました、でも、」
 わたしはくだものナイフを後ろへ放り投げた。傍聴席から声が上がった。
「――もう何の意味もないんですね」

「かの子を殺したのはあんただ」とわたしはパパへ言う。「あんたがかの子を殺したんだ!」
 まるで阿呆のような台詞を一生懸命に叫んだ。
 パパは変な顔をしていた。茶色いロングコートを着ていた。「お前は疲れているんだ。無理もない」と言った。「人を呼ぶから、暖かくして帰りなさい」そして橋を上って船に乗った。
 帰りの黒い車の後部座席に乗ったわたしは濡れていて、ワンピースは肩が出ていたから誰かがショールを羽織らせてくれていた。ときどき窓から、夜の街の灯がぼんやり差し込んだ。
あの人には何も刺さらないのだ、とわたしは考えていた。物理的に胸を刺しても、パパが感じる胸の痛みは物理的なものだけだろう。
 わたしの込めた想いはへなへな天へ昇っていくばかり。
 何をすればあの人の心を苦しめられるのだろう。
病院のベッドで書き物をしていると、兄がやってきて言った。
「また無駄なことをしてるのか」
 見向きもせずにわたしは言った。
「ねえ兄貴。パパを理解しなきゃならないんだけど、手伝って」
「なんで?」
「パパをできるだけ苦しめたいの」
「三日も経てば忘れるんだろ?」
「これは忘れないよ、絶対」わたしは胸の憎悪をかきむしった。「これを忘れてしまったら、本当にわたしという人間には何もない」
「そう決めつけるなよ」
「何かを決めて生きていかなきゃいけないんだよ、人間は」
 きっ、と兄貴を睨むわたしの目には強い光が宿っているし、言ったことも正しいと思うけど、年若いってだけで力に欠ける。不公平だった。兄貴やパパなんかより、絶対わたしの方が強い感情を持っているのに。
 それを言ったら、強けりゃいいってもんじゃないよ、と言い返されるのがわかっていた。
「まあ、俺は正解知ってるよ?」
「え?」
「パパを苦しめる方法」
「……間違ってんじゃないの?」
「これは絶対に自信があるね」
 何事にもふにゃふにゃしている兄貴がそこまで言い切れるなんてよっぽどだ。
「教えてよ」
「うーん、でもこれは、俺もやってほしくないからなあ」
「裏切り者、死ね」
 兄は笑いながら、急で狭い木の階段を登っていった。
 空っぽの笑い声だった。聞かされるこっちも気が滅入る。

 頭を使いすぎて、頭が痛くなった。
 深夜、木枯らしのヒュウヒュウいう音につられて窓を見ると、一枚の枯れ葉が引っかかっていた。
 枯れ葉……。
 かの子がなにか、話していたのを覚えている。
 病床と、枯れ葉。
 思い出せない。
 もう一回教えてよ、かの子。

 お見舞いにきたパパは、またあの変な顔をしていた。
 兄がする寂しい笑顔と似ているような気もしたけど、そんなはずはないと首を振り払った。
「お前も、武も、俺が考えていたのとはまったく違った人間になってしまった。これから軌道修正することもできないだろう」
 そもそも軌道に乗せようとしたから逸れたんだよ、バーカ。
「それはそれでいい。ただ、元気ではあってほしい」
「わたしは病気じゃない。怪我だよ」
「心の怪我か?」
 わたしははっきりパパを見据えた。
「あのね、実地へ行ったことのないパパにはわからないだろうけど、行くたびに心は強くなるんだよ。最近じゃPTSDで嘔吐とかもしなくなったよ。わたし、一人前の兵士だから」
「麻痺しているだけだ」
「何が真実かなんてなんでパパが決めるの?」
「……お前、」
「正しさを決めるのは数の多さ? そんなのわたしは信じない。世界中の人が人を殺すのは善いことだって言ったって、いや絶対悪いことだろってそれくらいわたしにはわかり続けるよ」
 と、人を殺しまくってるわたしが言う。
 わたしは笑いだした。

「みんなの言うようにかの子が嘘だったとして、嘘ならかの子が死んでも問題ないわけ?」わたしは兄貴に詰め寄った。
「べつに嘘か本当かは問題じゃない。嘘が死んだって本当が死んだって、ある人には問題だし、ある人には問題じゃないし、嘘の方が本当より悲しいこともよくある。そこは問題じゃない。
きさ子にとって大切なのは、かの子が本当であってほしいという想いだろう」
「あってほしいって何。かの子は本当だから。かの子だけは本当だから」
「俺や親父よりも?」
「兄貴は裏切るかもしれない。パパなんて論外。かの子は死んでも裏切らない」
「そりゃ死にようがないし……」
「それ以上くだらないこと言ったら、刺すよ」
 わたしの差し向けた刃を、兄が握った。シーツに血が滴った。
「……小さいナイフだな」
「何やってんの。はなしてよ」
「放していいのかな」
「はなさないなら引き抜くよ」
「いいよ」兄は目を閉じた。
「…………」わたしはため息をついて、頭をかいた。

 パパがお見合いの話を持ってきた。
 殺そうかと思った。
 でも、資料は見てみた。
 ふーんと思った。

 パパを最も苦しませる方法、その答えが唐突にわかった気がした。
 いや、嘘だ。
 ずっと前から知っていた。

 戦場では死んだ恋人の話が流行っている。
 ふつう逆だ。死ぬかもしれないのは戦地にいるわたしたちで、それを待ってるのが恋人たち。
 でも違った。
 恋人たちはみんな、後に残されるのが耐え切れなくて自死を選んだ。
 真実の愛を永久の球に閉じこめる。
 世界が滅んでも宇宙が消え去ってもその球は残り続ける。
 わたしたちのなかには、本当は恋人なんていなかった人もいるんだろう。
 でもそれだっていいんだ。
 どうせみんな死んでいるんだから、存在したかしてないかなんて問題じゃない。
「そうか?」と兄なら言う。「生身の恋人との日々がくれるものの手触りは素敵なもんだよ。架空の恋人には出せない」
 そんな野暮を言うやつはここにはいない。
 野暮野郎は入隊前の思想テストで落とされる。
 笑顔で回答して即座に落とされた負け犬の一匹が兄だ。
 馬鹿め。
「俺はそれ、落とされてよかったよ」と兄貴は悔し紛れを言う。「いまの彼女にだってムカつくとこはあるけど、幸福な日々だ」
「幸福な人間がタバコなんか吸う? 満たされてないんだよ、兄貴は」
「そうだな」兄貴はポケットからタバコを出し、掌のなかのそれを見下ろした。「もうやめてもいいのか」まだたくさん入っているそれをくしゃっと握りつぶして、窓を開け、放った。
 わたしは驚愕した。目を見開いていた。そのままの顔で間抜けなことを言った。
「……ポイ捨て反対」
「わはは」振り向いた兄貴が笑顔になって言った。「いまお前、すごい間抜け面」
 知ってる。
 そして兄の禁煙は続いている。
 アスファルトの細い道を、恋人と談笑しながら歩いている兄貴を見ている。
 幸福。
 幸福。
 そのまま頭のなかで十回くらい言った。
 幸福。

「でもかの子ちゃんは恋人じゃなかったんでしょ?」と同僚の兵士が尋ねる。
「うん、けどわたしはなりたかったんだと思う。本当は。でも、わかってなかったんだ。かの子が死ぬまで」
 同僚は白いハンカチで涙を拭う。
 わたしは割と満足する。
 満足?
 満足だと?
 かの子の死を涙の餌にして満足?
「うううううう」わたしは両手で頭を抑える。「ううううああああああ」
「軍曹、大変です! 岡本二等兵にフラッシュバックが――」

 夜中のベッドで暴れ出したわたしを見つけて、一人では抑えきれなくなった看護師が応援を呼びに行く。
 病院だって戦場なんだなとわたしは思う。
 発狂してじたばたしているわたしが頭のどこか隅で淡々とそんなことを考えている。
 それって笑える。
「くふ」
 誰か一緒に笑ってほしい。
 狂人の笑顔でわたしは涙を流している。
 死ねばいい。
 誰もこんなやつに手を差し伸べる必要はない。


「看病してくれるんじゃなかったの?」ベッドの傍に立ったかの子の幽霊が言った。「幽霊って言ったって色がついてないだけだけどね」
「触ることもできない」
「しようと思えばできるでしょ」幽霊になって余計白くなった掌をわたしへ向けた。
「そんなこと言わないでよ」
「もうめちゃくちゃだね」鼻息だけで笑いながら言った。「めちゃくちゃなんだし、触ってもいいんじゃない?」
 わたしはその掌をじっと見つめて言った。「べつにいいけど、そもそもあんたは幽霊であって、かの子じゃない」
「そう」静かな笑顔のまま言った。「やっぱりずっと一緒にはいられなかったね」
 次の瞬間、かの子はいなかった。風だけが吹いてカーテンが大げさにはためき、窓からは桜が舞いこんできていた。
 いつから「次の瞬間」へ移ったんだろうとわたしは思った。
 まばたきの間?
 じゃあ、まばたきをしない人にとっては瞬間と永遠は同じ?
 区切られることがないからそもそも瞬間が生じなくて……
 ただ目の前に永遠が横たわっている。膨大に、海のように、鯨のように。
 一人でそれを眺めていた。
 指きりげんまんをしたことを思い出した。
 涙が出た。
 見下ろした、涙が落ちた、わたしの右手は小指だけ、他の指と比べて白い。
 かの子の指だった。
 いつだったか、お互いの小指を交換したんだ。
 そのとき、指の縫い目からは血が滴っていた。わたしもかの子も、痛みで汗びっしょりだったけど、笑顔を崩さなかった。いや、素で笑顔だったのかもしれない。それほど嬉しかった。
 バカみたいだ。そんなことのために体を傷つけて。フランケンシュタインみたいになって。お嫁に行けない。行く気ないけど。
 かの子はお嫁に行く気だったんだろうか?
 かの子ならいいお嫁さんになれる。少なくともわたしよりはずっと。
「二人ともなれるよ。わたしたち、お互いの花嫁だもの」
 そうだった。そうだったね。

 大丈夫。
 もう大丈夫、見失わない。
「辛いよきっと」
 大丈夫。
「ほんとに辛くなったら、傍にいる人へ寄りかかっていいんだからね。みんな、きさのこと見捨てないでいてくれる、いい人たちだよ。安心して」
 うん。
 わかってるよ。
 でも、かの子のことだって、わたしは絶対見捨てない。
「ありがとう」
 涙を浮かべて、かの子は微笑んだ。
 幽霊になってしまったから、かの子の涙を拭ってあげることはもうできない。
 それがわかってるから、かの子は自分で涙を拭う。
 でもそこにいてくれる。
 たとえ幻でも。

 わたしはかの子を書き続ける。
 孤独でヨボヨボの、真っ白髪の老婆になっても、かの子を書くことだけはやめなかった。
 昼も夜も病床で書き続ける。
 戦い続ける。
 夜には窓の外、粉雪が降っている。
 朝がきて、看護師がカーテンを開けると光が照らす。
 わたしの灰色の顔が、ピンクの死に花を咲かせている。
 まるでゾンビみたいだけど、きちんと両手を胸の上で合わせて、微笑んで天に召されている。
 わたしが天国へ行ったのは書類のミスで、門衛は親指を下に向ける。
 地獄にはもちろんかの子が待っている。
「遅い」
「ごめん」
 笑いあう。
 あの頃の姿に戻ったわたしたちは腕を組み、どろどろと赤く暗い、花のたくさん生えた地獄の沼を歩いていく。
 黒い列車に乗る。
 血の滲む温泉卵を「いただきます」する。
 駅員さんは服も顔も真っ黒で、わたしたちに給仕する手だけが白い。
 山に登る。旗を立てて制覇する。ガハガハ笑うわたしを、かの子が写真に収める。
 たまにはまじめに罰も受ける。
 裸で大きな針に刺し貫かれたまま、内緒の話をする。
 次は何に生まれ変わろうか。
 輪廻は遠い先の話だけど、二人ならあっという間だ。
 だからいつきてもいいように、毎日話しておかないと。
 なかよしきょうだいになろうよ。
 男? 女?
 お兄さんと妹。
 え、やだな。
 姉妹。
 兄弟。
 三人姉妹。
 あいだが男の子。
 両脇の姉と妹から女の子の格好させられて。
 その格好のまま運動会走らされて。
 涙が後ろへ飛んでいって、軌道になり残って。
 生きているのが嫌になって。
 高校でグレて?
 でもわりと女子にはモテて。
 モテモテで。
 花粉でいっぱいの退廃の教室で長い髪を女子の手に弄ばれて……
 それだけでいきそう!
 あははは。まじめにやって。
 じゃあ、
 透明の小さな蝶々になって、きれいな西洋の少年に捕らえられよう。
 うーん、
 四つ葉のクローバーになろう。
 ザリガニになろう?
 鍋かな。
 おたま。
 ! 楽隊。
 いじわるな人の涙。
 夜の波と、汽笛の音。
 戦争に荒らされた村人たちの叫び声。
 全部吸いこむ青い空。
 打てども打てどもなんの音も返さない空。
 音が返ってくるのを待っている計測機械。
 子供の帰りを待ちながら涙を流す母親。
 獣のような狂喜の笑顔で人を殺している父親。
 殺人現場で手を叩いて喜んでいる子供。
 肩にのせてもらって進んでいく先にのぼるぎらぎらの朝陽。
 指差す子供の人差し指を溶かしていく日差し。
 アルプス一万尺。
 掌が赤くなってかゆい。
 人肉を食べる。
 みんな口の端に笑顔をつけてピースサイン。
 一人だけ後ろの暗がりで卑屈に笑ってる。
 でもその子だって救われてる。
 だって世界の何もかもがかの子とわたしだから。
 絶望して泣いている子には必ず妖精が手を差し伸べてくれる。
 ペアを組めないはぐれものが生まれることはない。
 万一はぐれたら空が踊ってくれるし、
 ふたりが手をつないだ瞬間みんな拍手してくれるだろう。

 地獄の地面に寝そべって髪や顔を撫であっている、ふたりはずっと幼い姿になって、目を閉じて同じ微笑みを浮かべている。
 もう、同じなんだ。
 日々は続く。
 区別のつかない日々が、いつまでも。
 めくってもめくっても終わらないカレンダー。
 だから、
 眠りのなかに溶けてしまっていい。
 おたまじゃくしをすりつぶしたような黒い波がふたりに覆い被さる。
 波が打ち寄せ、引いていくたびふたりは小さくなって、やがてひとつの卵になり、光の泡になって消えたのでした。

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