産まれてきてよかったな
感動をことばにするのは無粋なことかもしれない。
現実のできごとの細部、感情や感触まで完全に再現できることばなんて存在しない。
ことばは必ずなにかを歪め、削ぎ落とす。
だけど、再現はできなくても、それがあったことを記録することはできる。
記録すれば、未来の自分が思い出せる。ほかの誰かにも、知ってもらえる。
だからこの文章を書くことにした。
2023年1月23日、息子・悠季仁(ゆきと)が産まれた。
コロナ対策のため、出産当日はガラス越しに一瞬しか会えなかった。
最初に息子を見たとき、自分はなにを思うのだろう。いろいろ想像はしていた。
でも、実際に思ったことは想像のどれともちがっていた。
見た瞬間に感動で号泣したりはしなかった。もっと穏やかで、自然な感情だった。昔からの知りあいみたいな。「よろしくな」と思った。
帝王切開のため、産まれて1週間は妻とも悠季仁とも会えなかった。それでも早かったほうだ。妻がリハビリ(?)をがんばってくれたおかげで、今週末には退院できた。妻のご実家ではじめて悠季仁を抱っこして、少しだけどお世話もできた。
入院のときから大人しくて良い子だとは聞いていて、実際会ってみてもそうだった。
最初に見たときから思っていたけど、とにかく黒目が大きい。うるんで、光っていて、瞳をのぞきこむ僕の顔が鏡みたいに写っている。宇宙みたいだなあ、と思う。
きょろきょろとよく目を動かし、いろんなところをじっと見ている。その目にどんな世界が見えているのだろう。
人それぞれ、見える世界はちがう。人が産まれるとは、ひとつの宇宙が誕生することだ。悠季仁を見ながら、そう思った。
あっという間に土日が過ぎて、お別れのときがくる。妻と悠季仁はしばらくご実家で預かっていただくことになっている。僕は新居に帰って、明日から仕事だ。
次会えるのは、一週間後。
赤ちゃんは毎日どんどん大きくなるらしい。いまの悠季仁に会えるのは、いまだけだ。
別れ際に悠季仁を抱っこしているとき、僕はそのことをちゃんと理解しようと思った。
おなじ「いま」は一つもない。取り戻せない。
赤ちゃんじゃなくても、頭ではわかっているはずのこと。
だけど、そんな当たり前の喪失こそ、実感するのは難しい。
だからこそ、頭だけでも理解しようと努めるべきなのだと思う。
感情が追いつかなくても、追いつくまで、このいまを焼きつけようと思った。
目の前にいた妻が泣きだした。「産まれてきてよかったなあ」と、悠季仁に言った。
僕もそう思った。泣きそうになったけど、ご両親の前だったのでこらえた。
帰りの電車で、いろんな未来を想像して泣いた。
縁起でもないことだけど、悠季仁がいつか大きくなって、生まれてこなければよかったと、思う時がくるかもしれない。
僕にもそういう時があった。
過敏になりすぎているのはわかっている。そんな時、来なければそれが一番だ。
でも、もし来てしまったら、僕は今日のことを伝えたいと思った。
死ぬほど苦しい、悩みの渦中にいる人間には、どんなことばも無力かもしれない。
死にたい人に生きてほしいと伝えるのは、救いどころか、暴力かもしれない。
それでも、伝わらないかもしれないけど、伝えようとすることをあきらめたくない。
そのためにも、僕は今日のことを、記録している。いつでも思い出せるように。
新居に帰ると、熱が出ていた。
コロナだったら、うつしてしまっていたらどうしようと、少しパニックになった。
しばらく悠季仁にも会えなくなる。日々大きくなっていくのに。悲しくなって、また泣いてしまった。
妻に連絡したら、「こっちは大丈夫だから、いまは体を休めることだけ考えて」と励まされた。
シャワーを浴びて、少し落ち着いた。
情けない。ちょっと熱が出たくらいで。
でも、コロナだったらしばらく会えないのは事実だ。
神様、お願いします。コロナはやめてください。
あとは勝手に元気になりますから。
そうだ、僕は元気でいなければならない。
妻に励まされて、そう思った。
後ろ向きになってはいけないし、無理をしすぎてもいけない。
もう自分一人の体ではないのだから。
悠季仁、また来週。
一緒に元気に暮らせるように、パパもがんばりすぎずにがんばるよ。