世界の終末、ふたりのおわり
日曜日、暗い部屋で女子高生はテレビを見ていた。ニュースキャスターが伝えているのは娼婦殺しのことだった。この人が私の救世主かもしれないと彼女は思った。自分の娼婦の噂が緑色の風になってどこか遠くの町に吹き、その風に含まれる寂しい匂いを嗅ぎ取った娼婦殺しが顔を上げる。彼はきっと優しい人なのだ。電車に乗って匂いだけを頼りに歩いてこのマンションを見つけ、エレベーターに乗り二十六階で降り、私の部屋のインターフォンを鳴らす……何度もその音を聞いたような気がして、彼女は短い眠りから覚めた。ドアを開けてもやたらに照明で明るい廊下が伸びているだけ。それでもいつ彼がくるかわからないから、部屋を空けることはできない。やがていつが日曜日なのかわからなくなった。ずっと見ているテレビのニュースには曜日が書いてあるけれど、それはただの文字でしかなく、実感をもたらすことはない。ニュースの内容は単調になってきていた。雪が降っている。たくさんの雪が、あらゆるところで。そればかりだ。本当だろうか。幻覚かもしれない。降り続く雪の下にだんだんと埋もれてゆくような自分の頭の中の世界が見せている、幻覚。一度何か別のニュースもあった気がする。娼婦殺しが逮捕。何のことだろうか。わからない、どうでもいい、眠い、でも深い眠りは訪れない、起きているのか寝ているのかわからない頭に白い靄がかかって何千回、何万回目かのチャイムが鳴った。この音さえ自分の幻覚かもしれない、と思いながら、もはや習性で体が動き、ふらふらとした足取りで倒れ込むようにドアノブを回しドアを開ける。人が立っていた。紺色のズボンに、猟師が着ていそうな茶色いジャンパー、その肩に雪、頭に被っている暗い赤色の毛糸の帽子にも、雪。顔を見ると女だった。健康そうな顔をしている。知っている顔……どこかで……「ひどい顔してるね」そう相手の口が動いて言うので、彼女はドアノブをつかんでいない方の手で自分の頬に触れた。不健康な白い頬はこけていて肌はあちこちささくれだち、目の周りは皺と隈で彩られ、しょぼくれている。髪の毛はぼさぼさだ。
「廃人そのものだよ。しゃべれる?」
「……なんで?」
「謝りにきたの。ごめんね。ずっとこの一言が言いたかった。言えてよかった。ゆるしてくれなくてもいい」
「別に……たぶんそんなに怒ってなかったよ、元から。もう覚えてないけど……」
「この世界にはもうわたしたち二人しかいないんだよ、知ってた?」
「……? でも、ニュースが……」
振り返ると、テレビは灰色の横縞のノイズの砂漠になっている。
「なんで私たちだけ生き残ったの?」
「引きこもってたから」
「学校行ってなかったの?」
「うん、閉じこもって、反省してた。暗いところで。ねえ、今からそこへ行こうよ。わたしたちが終わるための、一緒に最期を迎えるための小さな聖域、用意しておいたから」
親友が彼女の手を取った。彼女は尋ねた。
「あなたが好きだった、あの人は?」
「あの人は……今頃、生まれ変わるための準備をしてるよ。冬眠。新しい姿に変わるための」
「あの人の場合は、『古い姿』かな?」
「そうかも」笑った。「わたしはバカだったね。勘違いしてた。あの人がわたしたちの間に入って引き裂いたなんて……おこがましい。あの人は平等に、わたしたちどっちにも興味なんてなかった。いつも別のどこか、いつかを見てた。だから好きになったのに……本当にバカだ」
「うん、バカだね」
「行こう」
手を繋いで廊下を歩きエレベーターに乗った。エレベーターの中でも手を繋いで並んで黙って立っていた。ほとんどの住人がいなくなっても律儀に当然に動くエレベーターを好ましく思った。人間よりもはるかに信頼できる。でもそんなエレベーターに乗るのもこれで人生最後だ、と右から左へ移り変わっていく階数表示の光を見ながら思っていた。ポーンと音が鳴ってドアが開き、外へ出るときエレベーターにとってもこれが最期の活動なんだと思い、振り向いて手を小さく振り、「今までご苦労さま」と言った。目蓋が閉ざされるように、エレベーターの扉がスッと閉まった。
エントランスはオートロックだが、ガラスが割られていた。そこを乗り越えるとき、
「割れてたの?」
「わたしが割った」
「ああ」
そういえば親友の手には斧が握られていた。持ち手は木で、刃は赤く塗られ先端だけ銀色だ。
町には雪が積もり、たしかに人は誰もいなかった。白い犬はいて、鼻先で地面をほじくっていた。空は白く、朧な雪がゆっくりと降ってくる。親友は楽しそうに彼女の手を取ったまま、スキップをした。
「昔みたいだね」
「うん」
二人は小さいころ同じようにして、ずっとまっすぐに伸びる銀杏の並木道を歩いていた。地面はほとんど黄色い葉に埋め尽くされ、中央に敷かれた白い道も葉で見えないくらいだった。二人は葉を蹴散らして進んだ。
「あのときの葉っぱが全部雪に変わっただけだね」
「うん、何も変わってないね」
二人が残していった足跡も、すぐに降る雪で塗り潰される。
コールタールの荒野に立つ小屋が最期の場所だった。なぜかその荒野一帯だけには雪が降らず、剥き出しのゴツゴツした石が転がっている。
「ね、聖域でしょ?」
「うん」
小屋にはベッドが一つあるきりだった。親友が床に座ってベッドに背を預け、彼女は清潔な青白いシーツのベッドに仰向けになり、二人は手をつないだ。
「おやすみ」
「おやすみ」
「もう起きちゃダメだよ」
「うん」
「どこにも行かないで」
「うん」
「約束だよ」
「約束」
二人は目を閉じた。これから生命の灯が消えるとは思えない、つやつやとした真っ赤な唇。並んだ安らかな表情も、眠りに落ちる瞬間も、双子みたいにまったく同じ――寸分違わず完全に重なった、永遠だった。
小屋の上へゆっくりと雪が降り始めた、天使のように。