書かないとしんどくなる理由
僕は定期的に小説を書かないとしんどくなる
学生時代はそこまででもなかったけど、社会人になってからは頻度が増えた
一週間に一度、数日に一度、できれば毎日
それは多分、人生の残り時間のうち、仕事に奪われる時間が増える分、書かなきゃヤバいという焦りが生じたから、という理由もあるだろうが
自己治療、という理由もあると思う
社会は、僕にとって適合が難しいものだ
でも、お金を稼いだり、家庭を維持したりするには、適合度を上げなければならない
適合するとは、自分の形を捻じ曲げることだから、本来の自分は悲鳴を上げている
本来の自分は、適合できない=人から理解されない、スーパーコミュ障だ
社会に出てからは、生存戦略として、コミュ障なりに努力をして、表面上そつなくコミュニケーションを取る、ということも、少しはできるようになった
ただ、本質はコミュ障であり、たまにそれを人にぶつけて、困惑させてしまうことがある
僕の小説は、その最たるもので、僕のコミュ障部分が純粋培養された塊みたいなものだから、基本人からはわからんと言われる
わかりやすいものを書くことも技術的には可能だが、それでは書く意味がないと感じる
わかりやすい表面的なコミュニケーションに近いものであれば、普段の会話でしているから、書く必要がない
僕は誰にも救われないほんとうの自分、コミュ障部分が生きていた証を残すために、書いているのかもしれない
社会に適合すればするほど、コミュ障部分は無価値に思えてくる
人にとって価値がない、金にもならない
そんなものに執着することに、何の意味があるのか?合理的に考えれば、消し去ってしまった方がいい
でも、ほんとうの自分を消し去ることは、精神的な自殺だ
それはやがて、身体的な自殺にも結びつくだろう
だから僕は、生きるため、ほんとうの自分を思い出すために、書いている
理解されなくても、金にならなくてもいい。ただ、自分を救うために書くのだ
社会における僕は、人のために働いているので、自分を救うことは、人を救うことにもつながる
仕事は僕がいなくなっても回るだろうが、父親という、子どもにとっては替えがきかない絶対的な存在になってしまったので、僕は何としても、自分を救う責任がある
それに、コミュ障部分に価値がない、というのも、正しい表現ではない
すべての人の奥にある、理解し難いもの、それは理解し難いから、多くの場合、社会的には価値がないとみなされるのだけど、
理解し難いものを、多少なりとも理解できる形で表現できたとき、だれかの心を救うこともある
僕は実際そうやって、自分のなかの救われなかった部分を、だれかの作品に救われてきた
いつか、救える人になりたい
ぷろおごいわく、救いたがるのは、救われたがっているから、とのことで、たしかに僕は、救われるために書いている
救われるだけなら、以前は人の作品で良かったのだが、足りなくなってきた
それは今の僕が、過剰な社会適合によって、人の作品の供給だけでは、自己治療が間に合わなくなっている、という理由もあるだろうし、
救うことでしか救われない、マトモな人間になってきた?ということも、あるかもしれない
子どもを見捨てたら、僕は自分を殺してしまうだろう
子どもを救うことでしか、僕は救われない、ということだ
ソンナ人間になってしまった(なりつつある)以上、僕の小説は、理解されないものを、理解できるように書いたもの、すなわち、人を救えるもの、でなければならない
それはとても高いハードルだから、死ぬまでにできるかわからないけど
少なくともまずは、ここにいる一人の人間、自分を救う小説を書くことからはじめよう
これは祈りに似ていると思う
宗教の信徒も、定期的に祈りを捧げることでしか、救われない気持ちがあるのだろう
僕は小説を、特定のだれかに向けてと言うよりも、神様とか、世界そのものに向けて書いているような感覚がある
それは、神様に救って欲しいから、世界に自分の存在をみとめてほしいから、かもしれない
徹頭徹尾身勝手な、自分のための祈りが、だれかのためになる日がくることを願って、書き続ける