トランスローカル論の実践:多彩なチームでの共同フィールドワーク導入編
ここまでトランスローカル論の考え方や認識論について書いてきたので、少し合間ができてしまったが、このあたりで実践について。「多様性をベースにした学びのデザイン」と言っているので、この学びを経験してみることがトランスローカル論の理解にいちばん結びつく。書きたいことがたくさんあるので、導入編、前編、後編の3編にまとめてみる。
ここまで書いてきたトランスローカル論についてまずは言葉の整理から。はじめにトランスローカル論をあえて一文で言うと以下のようになる。
"トランスローカル論は、文脈が異なる複数の地域を対等な関係としてつなぎ、お互いを参照点として活用しながら、それぞれの社会が次フェーズに展開していくための視点を獲得したり、あるいはこれまでのあり方を手放す・unlearnするために、お互いの相違点をベースにして学びを創り出す方法である。"
何か複雑なことについてきちんとわかっているかどうかチェックしたいときは、そのことについて一文(or 二文)で言えるかどうかを確認してみるといい。一文で言えることについては、よくわかっていると言える。逆に一文で言えないことについては、他人に説明してもよく分かってもらえない。研究をしているとアイデアを取り込み過ぎて、議論が複雑になり、結局何についての研究なのか他人に上手く説明できない、という状況に陥ることがある。こういう時に書いたプロポーザルは大抵採択されない。こういうときは細かな言葉の定義や関連したアイデアは一旦脇に置いておくといい。余談でしたが、「トランスローカルをあえて一文で言う」の中の言葉の定義については、*1を参照。
この定義をベースに、この前編では、トランスローカル論を念頭に昨夏実施したフィールドワークでの導入について。
トランスローカルな学びをデザインする
2018年9月に秋田に研究者と大学院生が集まり、ローカル・アントレプレナーシップをテーマにしたフィールドワークを実施した。参加者は、南アフリカ、ナイジェリア、タイ、中国、フィリピン、モンゴルから集まり、通訳を入れての調査となった。フィールドを行った南秋田郡五城目町は私が研究者としてここ5年ほどフィールドにしており、この人口約1万人の町で、「人口減・高齢化が進む社会における持続可能な地域のあり方」をテーマに研究を進めている。
トランスローカル論をベースにした共同フィールドワーク@秋田
導入:今どんな社会フェーズにいるのか
テーマへの導入として、日本が今どんな社会フェーズにいるのか、ということを設定の議論をした。日本は今、色々な意味で過渡期にあり、これを最もよく表しているのが、拡大若齢社会から縮小高齢社会へのシフト。ある社会において若者が大半を占め、総人口も毎年増加していく段階にあると、社会ではあらゆる物事が拡大していく。この拡大を成長に置き換えることができさえすれば、世の中は基本的に明るいものとして写る。これを支えてきたのが資本主義という仕組みであり、増加する環境負荷や社会格差さえも、経済活動としてのみかけの計算上はプラス換算されてきた*2。
一方で今の日本は人口増加という峠をすでに登り終え、人口減少という下り坂をそろそろと降りはじめた。この社会フェーズでは低出生と長寿化が顕在化し、結果として高齢者が大半を占め、総人口が縮小していく。この状況では、生産に労働力としてインプットされるはずの若者人口が減り続け、消費もそれほど活発でない高齢者の割合が増え続ける。結果として、世の中が徐々に暗くなっていくような雰囲気がつくられる。
人口減少や高齢社会については、耳にタコができるくらいに様々なメディアで解説されてきているが、「ではどう考えたらいいのか・何をしたらいいのか」というコトの本質については、まだ十分に議論されていない印象がある。医療や年金などの社会保障制度についての調整などの方法の議論ではなく、縮小高齢社会という新しいフェーズにある今の社会がより善くあるためにはどういう考え方で社会をデザインしていく必要があるのか、という概念の議論が必要だ。
坂道をソロソロと降りるイメージ図
今の日本が置かれている人口減少という下り坂をそろそろと降りる経験は、社会にとって豊かさをどのように再定義するのか、という問いの現れとと言える。低出生と長寿化は、言い換えれば人々の生き方の変化であり、現象にすぎない。これに「明るい・暗い」の価値を付加しているのは社会の仕組みである。このような考え方をすれば、多様化な生き方を受け入れることができ、そしてその中で何が豊かさなのかを問うプロセスがはじまる。
「そんな理想論では社会全体の仕組みを支えられない」という批判を受けそうだが、この指摘には当たらない。今議論の真っ最中にある年金制度や医療・介護などの社会保障制度の改革は積極的に行っていけばいい。人口の減少フェーズにいるのだから、制度改革が必要なのは当然であり、これは起きている現象に対する適応である。「年金の支給開始年齢を65歳から75歳に引き上げる」などはこの適応の方法についての議論である。
ここで大事なことは、方法についての議論と概念についての議論を混同しないこと。適応に必要な方法はあらゆる選択肢を検討・試行すればいい。やってはいけないことは、「人口が減っているから出生率を上げなければならない」というような議論を盲目的に受け入れること。このような議論の背景にはどのような概念があるのか、そしてその概念を支えている価値観は何か。私たちが問い直さなければならないものはそこで、その価値観が本当に今の日本が置かれている状況にあったものなのかどうかを精査する必要がある。
このように、縮小しながら高齢化していくという特徴的な社会フェーズにある日本、そのフロントラインである秋田というフィールドに入り込むことで、人々がどのようなことを考えて様々なコトを起こしているのかを探ることにした。このプロセスは、全体として語られている縮小高齢社会という社会フェーズと、実際に人々が様々な動きを起こしているときの思考の間を見ていくものになる。個々に別々のローカルとのつながりを持っている研究者メンバーがやるからこそ意味のあるステップになっていく。
秋田というフィールドへの導入セッション
まとめると、トランスローカル論の実践では、どのようなローカルに入り込もうとしているのかの導入がとても大事になる。参加者は、自身の研究や居住を通じてあるローカルと強いつながりを持っているため、これから入り込む秋田というローカルについての知識と前提設定がなければ、本当は異なる理由によって生じていることについても、自身のローカルを基にして誤った理解をしてしまうことになる。人口減・高齢化は特に背景についての説明がなければ、それ自体をネガティブなものと位置付けてしまう可能性もある。
縮小高齢社会という、一見すると日本という社会が特異に経験していることに見えることを掘り下げていくと、実は先進国や途上国などの違いに関係なく、人と地域が結びつくときに生まれる想いやアイデアと、それらを具現化するときの手の動かし方が見えてくる。フィールドワークで行ったインタビューの具体的な内容とその分析については前編と後編につづく。
*1 トランスローカル論での言葉の定義
①トランス(つなぐ)
地域の物理的境界(boundary)を越えて他地域とつながること。このプロセスは特定のローカリティと強いつながりを持っている個人が、他地域のローカリティに触れることで生じる。
②ローカリティ(地域の文脈)
風土、自然環境、歴史文化、経済社会などの総合的な状況から構成される。ある個人が居住したりフィールドワークなどを通じて特定の地域の文脈について経験を伴って知っている状態を指して、あるローカリティを持っているとする。
③複数の地域
基本は2地域を想定しており、類似したものではなく、一定の差異がある地域を想定。国際軸が入ることが大事になる。
④対等な関係
ある地域がつながるもう一方の地域を成功例として見るような関係ではなく、お互いから学び合う関係性のこと。例えば、先進国の事例から学ぶ、というような関係性はこれに当たらない。
⑤地域
人々が暮らしのなかで単位として認識している範囲。想像の共同体、あるいはイマジネーションの届く範囲のコミュニティ(自身の行動が影響を及ぼすことが想像できる範囲のこと)。個人間、家族間、グループ間、地域間など複数の関係性の単位が重層的に存在する。
⑥参照点
お互いを比較対象ではなく、参照点として活かし合いながら、地域単位での学びを起こす。この学びは、ある地域が、あるいはその地域が存在する社会が、次フェーズに向かうための必要となる。
⑥相違点からの学び
お互いの似ているところではなく、お互いの特異的なところから学び合うことを意識する。似通ったところからの学びは、どのようになるか想像がつくけれど、相違点からの学びからはどんなものが出てくるのかわからない。新しい発想はそういうところから出てくると考えている。
*2 例えば「輸入されたコーヒーを日本で飲む」という行為には、コーヒー自体の生産にかかったコストの他に、現地の水や空気を使って生産したことや、輸送にかかった化石燃料や排出された炭素というコストが地球にかかっています。加えてコーヒーを生産している労働者が過重労働をしていたり、低所得のために子どもに教育を受けさせることができないというような構造があるとすれば、社会的コストもかかっていることになります。資本主義という仕組みの上ではこれらの環境や社会面でのコストは勘案されず、むしろ輸送にかかる燃料やサービスの売買によって、その存在自体がプラス換算されてしまうという矛盾を含んでいます。この是正が求められていますが、目を背け続けてきていると言うべきでしょう。