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Innovation City Forum 2019: 資本主義経済と幸福の変容セッションの感想

1.Innovation City Forum 2019

先週の11月19−20日は森ビル株式会社のグループが主催するInnovation City Forum 2019だった。今年で10回目を数えるICF、今回のテーマは、”Designing the future for global cities and lifestyles(20年後、私達はどのように生きるのか? - 都市とライフスタイルの未来を描く)"。2日間のフォーラムは全体会と分科会で構成され、都市と建築、ビックデータ社会をどう生きるか、ライフスタイルと身体の拡張、などなどフューチャリスティックなテーマが並んだ。

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*写真: 全体会の様子。映像と音の効果が盛り沢山で未来的な雰囲気だった。

2.分科会:資本主義と幸福の変容セッション

分科会のうちの1つが「資本主義と幸福の変容」セッション。ファシリテーターはNHKで欲望の資本主義という番組をつくった丸山俊一氏で、パネラーには新進気鋭の経済学者、文化人類学者、社会学者が並んでいた。

セッションは3人のプレゼンターが話題提供という形で10分のプレゼンをし、それに対してパネラーが意見を出し合うという構成だった。この3人のプレゼンターのうちの1人が哲学者で江戸川大学教授の荒谷大輔氏で、この先生のプレゼンが自分にはいちばん面白かった。

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*写真:荒谷先生の発表。はじめる前の自己紹介で「私は哲学者です」と言っていたのがとても印象的だった。静かな語り口で的を得たことを連続的に言う発表はとてもロジカルだった。

資本主義経済がなぜこれほどまでに世界に広がったのかを、ロックとルソーの右派と左派の対立が形成してきた社会背景を用いて説明をし、「我々が今どんな時代に生きているのか」をとてもわかりやすく語ってくれていた。この背景のところの説明については、荒谷先生の著書『資本主義に出口はあるのか』に任せることとして、このnoteでは荒谷先生が提案していた『「自分」という枠組みを外す』ということについて書いておきたい。

3.欲望を動力に増大し続ける資本主義という仕組みと「自分」という枠を外すということ

資本主義経済は格差の拡大や環境負荷を生み出してしまうという問題を抱えている。このことが自明になっている今日ですら、我々は市場中心の資本主義経済をやめることができていない。ファシリテーターの丸山氏は全体会のプレゼンのなかで、資本主義とは「やめられない、とまらない。欲望が欲望を生む・・・欲望を換気するシステム(?)」と指摘していた。そのうえで、資本主義が定着しているポスト産業資本主義の時代を「絶え間ない差異化のゲーム」と話していた。

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*写真:丸山氏の全体会でのプレゼンスライド。資本主義は「富める人がさらに富めるようになる仕組み」などと言われることがあるけれど、その核心は「欲望」であり、「自分」という単位なのだと思った。

確かに、資本主義経済は個人の欲望を満たすための消費行動が拡大することによって際限なく増大していく仕組みである。テクノロジーが高度化していくことで、それほどコストを掛けることなくテイラーメイドな商品やサービスを提供することができる社会にもなってきている。このことを背景に、市場はパーソナライゼーションを加速させてることで起きる、差別化の際限ない競争ゲームと化している。

この状況の本質には、近代社会がその思考において絶対的な単位としてきた「個人」がある。つまり、自分と市場、自分と労働、自分と国家、という常に「対自分と何か」という構造で社会が形成されてきた。今既に起きていて、これから更に加速していく差別化のプロセスの基礎には、この「自分」というユニットのさらなる強化を意味する。言ってみれば、大衆化を避けて個々の「自分」が持っている欲望にコストをかけることなく対応できていくことで、資本主義の拡大は継続し続ける、というわけだ。

荒谷先生の論点は、資本主義が欲望をより公共の利益(the common good)に置き換えることが必要だ、というものだった。資本主義が欲望を動力に増大し続ける仕組みなのであれば、この欲望をより公共的なものにすることができないだろうか、という主張である。プレゼンテーションのなかで、このシフトのための最初の一歩として、荒谷先生は『「自分」という枠を外すこと』を提案した。そして、近代社会におけるあらゆることの基本的単位である「自分」を手放して、そこに「共同体」を置いてはどうか、と続けた。資本主義経済が世界の隅々にまで浸透したポスト資本主義の時代に生きる哲学者らしい議論で、私にはとても納得感のあるものだった。

「自分」という枠を外すと、自分を「我々」のなかに位置づけて捉えることができる。この「我々」とはつまり「共同体」のことであり、共同体の欲望を考えると、それは「公共の利益」に辿り着く。公共の利益の感覚が生じると、その社会においては「集団としてどうしても許せないこと=正義」がより強く前面に出てくる。このように、「自分」の代わりに「共同体」を社会の基本的な単位として置くことができれば、欲望を動力に拡大する資本主義経済の仕組みを置き換えることなく、よりよい未来社会が実現できるのではないか、という議論であった。

4.「自分」という枠の外側に置くもの

さて、ここからは私の考えたこと。資本主義が世の中に人々の欲望が存在する限り際限なく増大し続ける仕組みであり、その結果として環境負荷や格差の拡大、そして貨幣価値換算ができない物事をマージナライズするという状況が生まれている。この仕組みの中心に近代社会がその思考の基礎単位としてきた「自分」があり、ここについて問い直すことが、資本主義という仕組みが内包する問題点に本質的に働きかける、ということになりそうだ。

一方で、この「自分」という基礎単位があったからこそ生まれた競争力や勤勉性という考え方があったことも事実だろう。そのため、自分という単位を全て「共同体」に置き換えようという議論には諸手を挙げて賛成できない感覚が残る。理論的にはそうなのだろうけれど、実際に資本主義経済の仕組みがすっかり浸透しているポスト資本主義社会の現代において人が動く原動力を考えたときには、やっぱり適当な欲望や競争が必要なように思う。

そこで、「自分」と「共同体」という2つのレイヤーを持つことはできないだろうか。ここでの「自分」は従来の市場をベースとした貨幣経済のレイヤーで、多くの人々にとっての労働や消費はここに集約しており、個人と市場とのつながりの核になるもの。そして「共同体」はこの核になるレイヤーの外側に存在する経済活動や交友のことで、贈与経済やシェアリング経済のレイヤーである。生活に関連するありとあらゆる物事が貨幣経済に取り込まれている、特に都市的な社会においては、この外側の共同体のレイヤーが皆無か、存在しても非常に弱い。昔は町内会などの繋がりで存在していたかもしれないが、今では子どもの部活やPTA行事などでかろうじてあるかどうかといった弱さだろう。一方で、人口減少や高齢化によってそもそも規模に依拠したビジネスが成り立たない地方や農村地域においては、以前から続いてきている地縁や血縁をベースとしたつながりが色濃く残っている。このつながりが源となって、おすそ分けや物の貸し借り、子どもの見守りなど、贈与経済やシェアリング経済と言い換えることができる協働が存在する。これはつまり、収入を得たり日々必要なものを購入するということは市場経済のレイヤーに存在するが、同時に日々の暮らしの質的な部分については贈与・シェアリング経済のレイヤーで動いている状態である。

都市化が進むことで規模が生まれ、規模が生まれるとあらゆる営みを市場に乗せることが簡単になる。この結果として「自分」という単位が占める仕組みが拡大し続け、同時にその仕組みの歪みとして格差などの問題が出てくる。これを補正する仕組みとして、「自分」と「共同体」の置き換えという見方ではなく、「自分」というレイヤーの外側に「共同体」というレイヤーをデザインし、人々の暮らしのなかに埋め込んでいくことができるかどうかが、特に都市の文脈において、「資本主義と幸福の変容」のためには重要なポイントではないかなぁと思った。

貨幣経済の仕組みにのった物事が肥大している今日、それ以外の経済の存在が極端に弱まっているのだと思う。さて、自分と共同体の二層のレイヤーのバランスが良好な状態の仕組みは、どうやったらつくっていけるだろうか。


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