受け継がれてきたものがそこにあり、継承できるということ: サステイナビリティ学特別講座「持続可能な開発のための教育と内発的発展論」の感想
私が勤めている東京大学大学院サステイナビリティ学教育プログラムでは、今学期に「サステイナビリティ学特別講座」を実施している。何をやっているかというと、教育、食、宗教、地域文化などなど、多様な分野の第一線で活躍している人たちをゲストスピーカーとして招待し、それぞれの分野と「サステイナビリティ(持続可能性)」とのつながりについて講義をしてもらっている。
この特別講義を主催しているのは東京大学のなかにサステイナビリティ学教育プログラムをつくった味埜俊教授。元々は汚水処理に取り組んできた都市工学の専門家だが、多様性をキーコンセプトにサステイナビリティ教育に情熱的に取り組んできている先生だ。
1.地域社会のサステイナビリティを議論する
先週のゲストスピーカーは、大分県佐伯市であまべ文化研究所という社会的企業を運営する岩佐礼子さんだった。岩佐さんは、東大にサステイナビリティ学修士課程が2007年に出来たときの最初の日本人学生で、そのあとに持続可能な開発のための教育(ESD)と内発的発展論に関する研究で博士号(社会文化環境学)を取得している。
元々ユネスコをはじめ国際協力のキャリアを経てから研究分野に来られた方で、欧米型の開発論と日本の風土に根ざした内発的発展論の両方に精通している。岩佐さんの博士研究は『地域力の再発見〔内発的発展論からの教育最高〕』という書籍として出版されている。今回の特別講義は、岩佐さんの出身地である大分県佐伯市をフィールドとして、内発的発展論と南方熊楠の「萃点」の概念を用いながら考察している地域社会のサステイナビリティに関するものだった。
*南方熊楠の「萃点」の概念についてはこちらのnoteを見て頂けると嬉しい。
2.遊志庵プロジェクトと次世代教育
岩佐さんがあまべ文化研究所で取り組まれているメインのプロジェクトが、「遊志庵」という古民家を改修した施設の運営。岩佐さんの祖父が生まれたという家が空き家になって20年以上放置されていたそう。ある時に帰省したタイミングで母親から「そういえばお祖父ちゃんの生まれた家が残っていたはずだ。見に行こう。」と誘われたのがきっかけでこの古民家の改修プロジェクトがはじまる。
きれいにリノベされた家は、2017年にオープンし、カフェやワークショップの会場として利用されている。2ヶ月に1回程度はチェロやバイオリンのコンサート会場としても活用されている。また、味噌・醤油づくりや蕎麦打ち、食べられる野草の教室なども開催されており、地域文化について学ぶ場所としても機能している。最近の活動としては、地域の高校生たちと一緒に地域散策のマップづくりをしていて、この活動を通じてあまべの地域文化について学ぶ機会を提供している。
3.時間の蓄積=継承できるものがあるということ
あまべ文化研究所のプロジェクトについて聞きながら、私の頭の中にあった問いは「将来的にも続いていく、持続可能な地域というのはどういう地域のことだろうか?」というものだった。日本において地域社会の将来を考えるときに、人口減少と高齢化のことは常に背景としてある。端的に言ってしまえば、将来的に人がどんどんいなくなり、住んでいる人たちも半数以上が高齢者というのが地域社会の実像だ。そのような地域の持続可能性とは、つまりは何を意味するのだろう。
岩佐さんの活動から気付かされたことは、古民家や地域の食など、取り組まれているもののいずれもが、蓄積された「時間」を有しているということだった。この時間は単に長い年月が経っているということではなくて、その時間のなかで人々が営んできた暮らしが、まるで落ち葉が積もって良質な腐葉土の土壌ができるようにしてあるということだ。言葉にしてしまえば「地域文化」というあたりになるのかもしれないが、それは果てしない奥行きを持った場の感覚だと思った。
そのような時間の蓄積があることは、「ある継承できるものがそこにある」ということを意味する。なぜなら、ある事が続いてきているということや、ある場での営みについての記憶があるということは、必ず時間軸を伴うからだ。そして、そのような受け継ぐものがあるときに初めて、私たちは継承することができる。"私"よりも先にある事や営みを積み上げた人たちがいなければ、"私"は何かを受け継ぐことも、継承することも(次に渡すことも)できない。
何か受け継ぐものがあるという感覚が"私"にあるならば、そのことは、何かしらの事や営みが、"私"が今生きているこの時まで持続されてきたことの何よりの証拠だろう。ならば、次の世代に生きる"私"が同じ感覚を持てるのかどうかが、つまりはその社会にある一定の持続可能性があるかどうかの1つの判断材料になりそうだ。
こう考えてみると、受け継がれてきたものを継承できるということは、何世代も前からの"私"とのつながりのなかでしかありえないことが見えてくる。地域社会では、その地域固有の風土や文化に根ざした価値観や世界観が色濃く残っていることが多い。これを単に文化資本や社会関係資本などという言葉に置き換えてしまうと、それらが持っている奥行きが一瞬でどこかに消えてしまう。それは「時間の蓄積」ということについて十分に考えてこなかったことに原因があるのではないか。
時間軸について考える時、私たちはついつい将来のほうに視点を向けがちだ。けれど、そうして将来のほうについて考える前に、一旦過去から続く時間軸のなかに自分を位置づけてみると、新しい見え方が生まれてくる。そのような見方を自然にできる人が多く暮らす地域は、きっと次の世代について考える意識も高い地域なのだろう。