ドクメンタ 15が映し出す新時代のキュレーター像とデザインキュレーションへの応用可能性
2022年6月18日〜9月25日の100日間、ドイツはカッセルで開催されたドクメンタ15 。芸術監督に選出されたインドネシアのアート・コレクティブ、ルアンルパは2020年からコアメンバー2名をカッセルに送り、地域の学生・住人・作家らを巻き込みながら芸術祭開催に向けたエコシステムを形成し始めた。「それはドクメンタの歴史においてかつて存在しなかった異例の試みであり、芸術祭一般としても非常に珍しい取り組みである」と文化批評家のコルブが評する通り、彼ら・彼女らのドクメンタ 15におけるキュラトリアル実践にはユニークな方法論が多数採用されている。
今回の記事では、このようなルアンルパのキュラトリアル実践を、スミスが新時代のキュレーター像として示す、プロセスシェイパー/プログラムビルダーとして役割を反映した具体例として、3章に分けて読み解くことを目指す。
まず第1章では、ルアンルパが実践を通して拡張した「キュレーターの役割」について読み解いていく。彼ら・彼女らが立案した芸術祭のコンセプトと、そのコンセプトの実践に向けて生み出した共創プロセスに注目しながら、ルアンルパが果たしたプロセスシェイパーとしての役割を読み解いていく。
続いて第2章では、ルアンルパによって再定義された「展示空間の役割」について、メイン会場であるフレデリチアヌム美術館の「オルタナティブな学校化」という取り組みに注目しながら観察していく。
最後に第3章と結論では、ドクメンタ全体における批評をまとめながら、ルアンルパによる実践がいかにデザインキュレーションにおける応用可能可能性について検討する。
なお、本記事の後編でも触れる通り、ドクメンタ 15におけるルアンルパのキュラトリアル実践については賛否両論あり、それがどのような点で良かったのか・悪かったのか、この試みが今後いかに現代アートに影響を与えていくのか・いかないか、現時点で専門家の意見は大きく分かれている。しかし、本noteはアート領域で議論されているキュレーション論を参考に、現代デザインのキュレーション方法を思索することを目的にしているため、本記事を通してドクメンタ 15の現代アート領域における意義の読み解きは行わない。代わりに、ルアンルパの実践をスミスが提示するキュレーター像から分析することで、デザインキュレーションへの応用可能性を検討する。
<イントロ>新時代のキュレーターとはプロセスシェイパーでありプログラムビルダーである
まず大前提として、新時代のキュレーター 像としてスミスが提示するのはプロセスシェイパーそしてプログラムビルダーとしてのキュレーターである。
詳しくは前回記事を参照いただきたいのだが、スミスは次のように定義している:
より平易な言葉で言うならば、それは「アカデミックな言説と地域のリアリティー、それらの複雑な繋がりを考慮しながら、”実験的かつ継続的文化プログラム”を設計し、プロセスとして実践できる人物」という意味であると解釈できる。
また、スミスはコンテンポラリーキュレーターの実践とプラットフォームを作ることの類似性に触れながら、新時代のキュレーターの態度を次のように説明する:
それでは、ドクメンタ 15においてルアンルパの実践はこれらの像をいかに映し出しているのか。次の項からは、ルアンルパが再定義した「キュレーター の役割」と「展示の役割」の2つの焦点に絞って、具体例を確認しながら分析を行なっていく。
<1章>キュレーター像の拡張:社会システムを描き、実現するための枠組みを作る人物へ
ドクメンタ 15においてルアンルパは従来のキュレーター の役割を再定義したといえる。彼ら・彼女らは「オルタナティブな社会システムを描き、そのシステムを実践するための枠組みを作り、運営する役割」を担っているのである。それはアートという領域を超えた社会システムのデザインに挑む態度であり、スミスが提示するアート領域におけるプログラムビルダー/プロセスシェイパーとしての役割をさらに拡張している。
その役割の拡張は具体的にいうと、独自用語の開発による世界観の提示、共同体のデザイン、そして共創プロセスのデザインという3つの方法によって果たされていく。
方法1. 独自用語の開発を通して社会システムを描く
ルアンルパがドクメンタ 15を通して描く社会システムは、「ルンブン(lumbung)」という言葉に集約される。
インドネシア語で「共有の米倉」を指すこの語は、彼ら・彼女らが以下で説明している通り、「経済的リソースを共に共有することへの可能性」を示すメタファーとして機能する。
「ルンブン」は、つまり西洋的な解釈でいう「コモンズ」であるが、それは単に「資源を共有する」という世界観には留まらない。
ルンブンという言葉が表象する、地域性、ユーモア、寛容性、自律性、透明性、効率性、リジェネレーションといったイメージは、西洋社会で誕生し今や世界の社会基準となった個人主義をもとにした資本主義的システムからの逸脱を訴え、脱中心化を提案し、西洋中心に形成された現在の社会システムとは異なる方法を模索することへの連帯を求める。
つまり、ルアンルパはルンブンという言葉を中心に、現状のシステムに抗うためのプラットフォームを築いているのである。そしてそのプラットフォーム作りはメンバーを拡張していくところから始まっていく。つまり、共同体のデザインである。
方法2. 社会システムを実現するための共同体をデザインする
今回芸術監督に就任したのは紛れもなくルアンルパであるが、彼ら・彼女らはその役割を、慎重かつ丁寧に他のコラボレーターにひらいていく。
まず最初に、彼ら・彼女らは「ルアンルパの拡張として捉えられる個人5名を」カッセル(ドイツ)、アムステルダム(オランダ)、エルサレム(イスラエル)、メン島(デンマーク)から招く。そして、ルアンルパとこれら5名を「アーティスティック・チーム」と名付け、「芸術監督(アーティスティック・ディレクター)」の拡張チームとして機能させていく。
次に、既にルンブンの価値観を実践している活動体14団体をチームに加える。これらの活動体は「ルンブン・インターローカル(lumbung inter-lokal)」と名付けられ、「ドクメンタ 15のあり方を共に想像すること」そして、「ドクメンタ 15の開催前・開催中・開催後において、共にルンブン的世界を構築すること」をミッションに、コアチームとしての活動を担っていく。
最後に、50の芸術的実践がドクメンタ 15に招かれる。これらの実践を行う個人やコレクティブは「ルンブン・アーティスト(lumbung artist)」と名付けられ、「ドクメンタ 15開催期間中の100日間、並びにルンブン・プロセスに参画する」という役割が課せらていくのである。
このようにルアンルパは、各グループに明確な役割や名前を与えることによって「ルンブン的世界観」を実現するための共同体を丁寧に編成していく。
この共同体の編成方法は、一見すると、既存の芸術祭モデルとの違いがないように見えるかもしれない。呼び名は違えど、芸術監督を中心として、運営チームや参加アーティストが存在するという体制は、これら3つのグループ編成と類似しているからである。
しかし、ルアンルパの取り組みが圧倒的に既存モデルと異なるのは、それら3つのグループ間にヒエラルキーを生まないための設計を行なっている点である。共同体を「ルンブン・メンバー」として機能させるために、彼ら・彼女は共創と対話のプロセスをデザインしていくのである。
方法3. ヒエラルキーを排除した共創プロセスをデザインする
アーティスティック・チーム、ルンブン・インターローカル、そしてルンブン・アーティストの総称である「ルンブン・メンバー」が、共同体として重要な決定を行うために、ルアンルパは「マジェリス(majelis)」という対話の場を設けていく。
アラビア語で「集会」のような意味を持つ「マジェリス」は、「共同体に関する議論を行う場」であり、共同でキュラトリアルな決定を行なったり、ドクメンタ 15に関する予算や、ルンブンのあり方に関する議論が行われる場として機能する。また、ルンブン・アーティスト同士が困りごとを共有し、教え・学びあったり、リソースを分け合うための場としても活用されていたという。
マジェリスを通して、ルンブン・メンバーはフラットに繋がり、そこから生まれた議論をもとに、独自のワーキンググループを構築していく。そして、これらのワーキンググループからは、自らの出品作品とは異なる、サイドプロジェクト群のようなものが立ち上がっていくのである。
例えば、マジェリスからは、「経済的ワーキンググーループ」が誕生した。そのグループは、「ルンブン・キオ(lumbung kio)」と呼ばれる環境負荷の少ない商品や資源を取引するための地域密着型の自営店や、「ルンブン・ギャラリー」と呼ばれる、販売された美術品を「共同体の資源」とするシステムを生み出した。また、地域通貨「ルンブン通貨(lumbung currency)」の開発を通して、ルンブン・メンバーが通常の市場経済とは別の「独自の経済交換システム」を持つことを可能にする取り組みも行われた。
マジェリスからは他にも、「The Where is The Art?ワーキンググループ」が誕生。アートを日常に根ざした行為と捉え、それらをコミュニケーションするためのワークショップが創造された。また、「土地に関するワーキンググループ」は、「コミュニティーのコモンズとして土地に共同投資するための方法」を模索し、それらの取り組みによっていかに土地の個人占有に抗い、大地を回復するかといった議論も行われたようだ。
このように、マジェリスからは様々な関心を共にするワーキンググループが誕生し、メンバーが関心をよせる社会課題に具体的に介入するためのアートプロジェクトが生まれていったのだ。
結果: プロセスシェイパーは連帯し行動する共同体を育む
芸術祭のテーマを通して「新たな社会のあり方」を訴える方法は、ドクメンタ 11『Retrospective』において芸術監督オクウィ・エンヴェゾーと6人のキュレーター・グループが行った例や、第10回ロッテルダム建築ビエンナーレ『It's About Time ー Architecture for Change』における例が記憶に新しいように、これまで芸術祭において試みられた方法である。
しかし、ルアンルパの取り組みが画期的であるのは、「理想」を描くだけに留まらず、それらを実現するための「具体的な方法」を提示し、日々の活動を運営するための「体制」を整えていった点にある。
つまり、ルンブン的社会システムを実現するために、様々な地域から参加するメンバーの地域性に根ざした意見や解釈を取り入れながら、ルンブンの概念を拡張し、共同体に実践をひらく「プロセス」を整備していったのである。このプロセスによって参加者は「ルンブン・メンバー」という共同体として連帯するだけではなく、共通の社会課題に具体的に介入するためのアートプロジェクトを立ち上げる「行動を起こす共同体」となっていったである。
これはまさにスミスが提示する「プロセスシェイパー」としてのコンテンポラリーキュレーター像と重なる。
ルアンルパはドクメンタ 15を通して、「アカデミックな言説と地域のリアリティー、それらの複雑な繋がりを考慮しながら、”実験的かつ継続的文化プログラム”を設計し、プロセスとして実践した」といえるのではなかろうか。
そして、ルアンルパの取り組みはスミスが定義するキュレーター像を拡張し、アートという文化領域に収まらない経済的・社会的を変化を目指した創造行為を生み出していく。
これらの創造行為は、ルンブン的社会システムを断片的に実現するため、現実社会への日常に根差した介入行為であると同時に、それらは相互に関係し合うことでルンブン的システムを全体として構築するものでもある。
<2章>展示空間の再定義:日常に根差した創造的実践を行う場へ
「これは展示以上のものです!友情と変化のための場所なのです」と公式図録で示されている通り、ドクメンタ 15において彼ら・彼女らが目指すのは、特定の世界観やテーマを提示する以上のことである。
ルンブン・メンバーらは、自らの地域における芸術的実践をカッセルという場に「翻訳」し、芸術祭という場を利用して「ルンブン的実践」を行うことを目指しているのである。そして、それらの実践に来場者を招き入れることを試みている。
このように、芸術祭を「展示の場」ではなく、「実践の場」と捉えること。実践を、自らの地域からいかにカッセルという場に翻訳しえるかという問いから考えること。これらの姿勢は以下で示させる通り、ルアンルパの「アートは生活に根ざしている」という立ち位置や、「日常に根差した創造的実践にこそ変化を生む力がある」といったような見解から生まれている。
ルンブン・メンバーが実践を試みる創造行為は、それが日常に根差す行為であるという点、さらに定形化した社会システムに具体的に介入する目的を持っている点で、デザイン思想家エツィオ・マンズィーニが『日々の政治』の中で描く「共同体におけるライフプロジェクト(Collective Life Project)」の概念と類似している。
「デザイン」については多様な定義が存在するものの、それは多くの場合「日常に根付く具体的実践」と言える。そのような観点から、ルアンルパが考えるアートは非常にデザイン的であると捉えることができるのかもしれない。
このような、ルアンルパが考えるデザイン的アートが最も象徴的に実践されている場として「フリデリチアヌム美術館」の存在が挙げられる。彼ら・彼女らは、「展示の場」を再定義し「ルンブン的実践の場」と変えていくのである。そしてその「実践の場」はデザイン的な思考を伴いながら、様々な機能を兼ね備え機能していくのである。
脱中心化の実践:メイン会場をオルタナティブな学校へ
フレデリチアヌム美術館は、ドクメンタのメイン会場として最も来場者を集める、いわばドクメンタ鑑賞の中心となる場所である。ルンブン・メンバーはこの「中心の象徴」である場所を「オルタナティブな学校」へと転換する。この場所から、西洋中心に生産され体系立てられてきた「公式的な知」と異なった「オルタナティブな知」を生み出そうというのである。
「オルタナティブな知」は厳密にいうと、フェミニスト科学論者であるダナ・ハラウェイがいうところの「状況に応じた知(Situated knowledges)」と類似するものである。それは西洋の伝統、中心的視点、「自律的」主体といった家父長的神観の外にある新しい形の知識生産、場所・状況・関係性から生まれる知である。
この「オルタナティブな学校化」のアイディアは、インドネシア語で「学校としてのフレデリチアヌム美術館」という意味をもつ「フリードスクール(The Fridskul)」と名付けられた。
この「学校化」によって、ルンブン・メンバーは「展示の場」を「脱中心的知識生産の場」へと転換するのである。その取り組みは主に4つの側面から行われた。
側面1. 「オルタナティブな知」を創造する参加型プログラム
ひとつ目に、参加型プログラムの展開による「状況に応じた知」の生産である。フレデリチアヌム美術館に並ぶのは、静的な鑑賞作品ではなく、来場者の参加が求められるプログラムばかりである。それぞれのプログラムは、西洋主導的に生産され体系化されてきた「"正式"な知」に対抗する「オルタナティブな知の生産」を目指している。
これらのプログラムは、ワークショップ、レクチャー、トークイベント、パフォーマンス等の形式で、会場の随所で突発的に展開され、100日間の会期を通して絶えず変化していく。
「状況に応じた知の生産」といっても堅苦しいものではなく、美術館の訪問者は、アーティストやメディエーター (ルアンルパ語でいう「Sobat-Sobat」。インドネシア語で「友達」の意)を介して、ある特定のテーマに関する個人的な考えや経験を述べる体験や、他者との信頼を気づくためのパフォーマスへと招かれていくのである。
例えば、私がフレデリチアヌム美術館滞在時に見たものは「信頼とは何か」というテーマの参加型パフォーマンス/ワークショップであ。10分程度の短い時間の間に、アーティストのインストラクションに従って、参加者と輪になって手を繋いだり、共通のルールの元にA4の紙1枚を使って音を鳴らすなどのパフォーマンスを行い、自分個人にとっての「信頼とは何か」を、身体的行為や参加者との関係性を通して考えるのである。
側面2. プロセスへの参加を促す「装置」としての「作品」
このような参加型プログラムが多いフレデリチアヌム美術館において、アーティストによって制作されたモノは「作品」というよりも、プログラムを演出するための「空間」や「プロップ」として機能しているものが多いように感じられた。
例えば、チュニジア生まれの共同デザインスタジオEl Warchaは、フレデリチアヌム美術館内で二つの作品群を展示している。
一つ目は、ルンブン・アーティストたちと共に構想を練り、El Warchaが空間デザインを行った「the Common Library」である。その造形から「建築的な作品」と見ることもできるが、その名前が示す通り、これらの造形物は鑑賞するためのモノではなく、来場者がゆっくりし寛いだり、ワークショップが開催される場として機能する。
二つ目のEl Warchaによる展示は、以下の空間である。この場所で展示される創作物に作品名はなく、彼ら・彼女らが自ら制作した家具や、来場者と共にワークショップを通じて制作した椅子が並ぶ。
これらのEl Warchaの展示空間から見られるように、ドクメンタ15の参加アーティストの創作物を「アート作品」と表現することに躊躇してしまう。それらは「作品」というよりも、ルンブン・プロセスから生まれた「実践」である。そして、創作物は「鑑賞されるためのもの」という受動的な役割ではなく、「ルンブン的プロセスに鑑賞者を誘うための装置」として機能しているように見える。物質に受け込まれた能動性や計画性には、とてもデザイン的な何かを感じるのである。
側面3. アンラーニングのための図書館
フレデリチアヌム美術館は「オルタナティブな知」をアーカイブする図書館としての機能も備えている。
オランダの黒人作家、科学者、活動家の文書や工芸品などを独自にアーカイブし、オランダの黒人解放運動と個人の歴史を記録している「ザ・ブラック・アーカイブス(The Black Archives)」。アジア地域における最新の美術史に関するアーカイブを行い、共同で知を広めるためのツールやコミュニティー構築を行う「アジア・アート・アーカイブ(Asia Art Archive)」。さらに、アルジェリアのフェミニストコレクティブや協会に関するデジタルかつオープンアクセス可能なアーカイブの構築を目指す独立イニシアティブ「アルジェリアにおける女性の闘争のアーカイブ(Archives des luttes des femmes en Algérie)」などが参加している。
これらの団体がアーカイブする資料は、いわゆるグローバル・ノースでは見過ごされていた歴史であり「美術史」の中で扱われることのなかった活動郡である。それらのアーカイブを、「図書館」という枠組みで展示することで、「オルタナティブな知」を創造するための「インプット」として機能させると同時に、観客に「公式であると思っていた知の非公式性」を学んでもらうような体験を作っているのである。
つまり、これらは「アンラーニング(Unlearning)のための図書館」なのである。
側面4. 共同体が連帯するための生活空間
「オルタナティブな学校」としてのフレデリチアヌム美術館が持つ最大の特徴は、そこが「生活空間」として機能している点である。
ルンブン・メンバーの一部は、そこで文字通り寝泊りし、他のアーティストや参加者たちと寝食を共にしていくのである。
実際に私もドクメンタ訪問中、フレデリチアヌム美術館でルンブン・メンバーたちが楽しそうに料理をしたり、食事をしたり、踊っている場面に出くわすことが何度もあった。
加えて、この空間には「ルル・キッズ(RURUKIDS)」と呼ばれる、子供専用に設えた、遊びと学びのためのスペースが存在する。そこでもまた、アーティストによるワークショップが開催され、子供たちは遊び心溢れる「実践」を通して、個人的な「学び」が収穫されるプロセスに参加するのである。
フレデリチアヌム美術館を「生活空間」とすることについて、ルアンルパは次のように説明している:
結果:プログラムビルダーはコンセプトを多用なプログラムへ翻訳する
このようにルアンルパは、「主要作品を展示する」という従来フレデリチアヌム美術館が担ってきたドクメンタメイン会場としての機能、その「中心的役割」を「脱中心化」することを試みる。メイン会場を「オルタナティブな学びの場」として再定義し、必要な機能をデザインしていくのである。
その脱中心化された空間において、創造行為と居住行為は共存する。そしてその空間において、モノは「作品」というよりも「特定の状況を生み出すための装置」として機能し、参加型プログラムの実践やアンラーニングのためのインプットを通して、西洋中心に体系化された「公式な知」へ抗うための「オルタナティブな知」の創造を行うのである。
これはまさに、Smithがいう「プログラム・ビルダー」としてのキュレーター 像と共鳴する。
ルアンルパが実践した美術館の再定義は、カッセルという地域におけるフレデリチアヌム美術館という空間が担ってきた歴史的・社会的役割を戦略的に逸脱するための試みである。「オルタナティブな学校化」というコンセプトに付随した様々なプログラムを立ち上げることによって、これらの場所性に埋め込まれた家父長主義や西洋中心主義といった言説をデコロニアルな手法を用いて逸脱しようとしているのである。これはスミスが考える「場所の特殊性と適切な国際的・地域的要因とを結びつける、柔軟なプラットフォーム構築の実践」といえるのではなかろうか。
<3章>ルアンルパのキュラトリアル実践に関する批評
コルブが上記のように評している通り、ドクメンタ15においては通常の芸術祭の形式では見られなかった形式が数多く試された。これらの新たな形式の実践こそがスミスの定義する「新時代のキュレーター 像」と重なる部分が多く、本記事ではそのような観点から、主にルアンルパが残したポジティブな功績について分析してきた。
しかし、あらゆるキュラトリアル実践がそうであるように、ルアンルパの試みは様々な側面から批判もされている。
数多く存在する批評の中で私が個人的に共感するのは、その実践が「抵抗する私たち(We)/ 支配する彼ら・彼女ら(Them)」といった、二元論で世界を捉える方法から脱していないという点である。
いわゆる、グローバル・サウスからアーティストを選出し、現状のシステムに抵抗するためのアクティビズム的側面を持った作品を多く扱った今回のドクメンタにおいて、参加者たちは「ルンブン・プロセス」を通し「連帯」していったわけである。しかし、それは見方を変えるとコルブが指摘するように「覇権主義的な手法」とも言える。
以下コルブが指摘しているように、操作的なプロパガンダや敵対的なキャンペーンを用いることで、グローバル・ノースに対する対抗勢力を形成しているというわけである。それは既存の権力構造をそのままに受け入れ、その構造における中身だけの変革を訴えているようにも見えてしまう。
個人的には、「ある特定の状況における抵抗の取り組み」を扱うこと自体には、全く問題はないように感じる。むしろ、世界に確かに存在する「創造的な抵抗」を、国際的な芸術祭で取り上げることは、その地域性に根付く抵抗のための方法論やそのあり方の多様性を世界に示すという点において、非常に有意義であると感じる。しかし問題点は、以下で再びコルブが指摘しているように、それらの取り組みが「抵抗者/支配者」という普遍的な権力闘争の構図や、大きなナラティブやイメージに回収されていく点にあるのだ。
上記の批評の他にも、以下のICA Kyotoの記事でブリオーが述べているように、作品の類似性がもたらす単調性、それらがキュレーションの文法における「編集ミス」から生じているものだとする批評も存在する。
修士課程在籍時の私の担当教授であり元V&Aキュレーターのヤナ・ショルツも、業界の中ではドクメンタ 15に関する意見は分かれている、と教えてくれた。「あれは現代アートではない」と否定する声や「今まで見た中で最も刺激的な芸術祭だった」という声が共存しているということだった。
このように様々な立ち位置から発せられる批評はあるものの、「現代デザインをいかにキュレーションしえるのか?」という問いからルアンルパの取り組みを分析した私にとっては、それらの実践はスミスが定義するプロセスシェイパーとプログラムビルダーとしてのキュレーター 像を拡張し、幅広い解釈で実践している例としてとても興味深い。
そしてそれらの取り組みは、「デザイン」というプロセスや機能、目的に焦点を当てる活動をキュレーションするという観点から見ると、非常に示唆に飛んでいると感じた。
<結論>デザインキュレーションに向けた考察
最後に、今回の分析を通して私がデザインキュレーションについてさらに思索を進めるために得た気づきを書き残して、本記事を終わりたいと思う。
1. 「展示の会場」の見直しと再定義
ルアンルパは、ドクメンタ 15という芸術祭を「展示の場」ではなく「新たな社会システムをテストするための100日間」と再定義した。
一方で、現状デザインはその展示方法をアートに倣い、ホワイトキューブの中でオブジェクトを展示する方法が一般的となっている。しかしそれは果たしてデザインに適した方法なのだろうか?むしろ展示するオブジェクトやプロジェクトを決める以前に、提示すべきテーマに合わせて「展示される場」の意味を再定義したり、その定義に一致する最適な場をデザインするところから、デザインのキュレーションは始まるのはないだろうか。
2. フェスティバル的空間における相互関係性とナラティブの演出
コルブが評したようにドクメンタ 15は「芸術祭」ではなく多様な形式を用いてルンブン的実践が試される「フェスティバル」であった。それはどちらかというと、空間において様々な実践が雑多に点在しており、作品間に物語的な繋がりは見えずらかった。そして、それらの実践郡はブリオーが指摘するように、類似性が高いものが並ぶ単調なものでもあった。
美術館においては、多様な作品はそれぞれに独立しながらも、緩やかにつながり相互に呼応し、一つのナラティブを形成していく。それは美術館という空間が特定の順序で回ることを可能にする設計でこともあるが、それ以上に、アートキュレーター たちの空間演出能力に拠るところが大きいのではないかと思う。
デザインキュレーターはいかにアートキュレーター 達から学び、フェスティバルのような実践が雑多に点在する空間において、一つのナラティブを形成するような経験を作ることが可能だろうか?また、作品形式と視点の多様性を確保し単調性を回避しながら、いかに作品間の関連性を演出することができるのだろうか?
3. 歴史的・社会的・物質的に拡張解釈可能なコンセプトや問いの設計
「ルンブン」という言葉は「経済的リソースを共に共有することへの可能性」を示すための明確なメタファーとして機能するだけではない。それは、世界各国の参加者を選ぶ際の評価基準として機能し、共同体としての共創プロセスを形成する際に方向性を与え、さらには美術館を学校化するための世界観となった。それは、社会的、物質的、歴史的、空間的に解釈する強度や柔軟性を持ったコンセプトなのである。
そこで、デザインキュレーションにおいても同様の強度や柔軟性を持ったコンセプト作りが重要ではなかろうか。作品群を明確に定義するような広告的コンセプトではなく、展示が行われる地域性に根ざしながらも、世界的に他者を巻き込むような強度があるものである。それは、一過性のトレンドではなく、歴史的考察に根差しており、今という時代に改めて用いたり問う価値のある言葉である必要があるのではないだろうか。
[参考資料]
documenta fifteen Handbook (2022) Germany: Hatje Cants Verlag GmbH.
documenta fifteen (2022) documenta fifteen. Available at: https://documenta-fifteen.de/en/ (Accessed: 26 Feb 2023).
Smith, T. (2012) Thinking Contemporary Curating Curating. New York: Independent Curators International.
Kolb, R. (2022) 'documenta fifteen’s Lumbung: The Bumpy Road on the Third Way: Fragmentary Thoughts on the Threats and Troubles of Commons and Commoning in Contemporary Art and Knowledge Production', On Curating, Issue 54, pp.57-94.
ICA Kyoto (2023) ニコラ・ブリオーとの会話 浅田 彰+⼩崎哲哉+島袋道浩+都留ドゥヴォー恵美里. Available at: https://icakyoto.art/realkyoto/talks/87254/ (Accessed: 26 Feb 2023).
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