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そばにいるから / ウブド(2)

2003/09/09

きっとこの街のどこかに「めくる」と書かれた赤い三角形があったに違いない。しばらくは見向きもされない存在だったが、アジア通貨危機を乗り越え、西暦の千の位が繰り上がったあたりで状況が変わった。誰かが無意識に、もしくは何らかの明確な意図を持って、かつての街並みはペリペリと簡単に剥がされてしまった。

めくった包装フィルムの下から現れたのは誰ひとり見たことないウブドだった。この地で暮らすバリ人でさえ予想できない光景だったかもしれない。もちろん店や通りの名前は以前のままだ。それが余計に混乱を深め、だまし絵のように記憶の壁を蹴り続けた。

とにかく今日の宿を決めなければならなかった。頭ではもちろん分かっていた。けれど混乱した頭では何ひとつ冷静な判断が下せなかった。歩き回ることの意味さえ見失い、路肩に腰を下ろして膝を抱えるしかできなかった。

何度もかき消そうと思った。でも駄目だった。心に浮かぶのはどれもが六年前の景色ばかりだった。

土煙の舞う小径も消えた。川のせせらぎも鳥達のさえずりも消えた。足繁く通った小さな商店も消えた。世話になったツアーデスクは跡形もなく、Tシャツを買った店は更地になっていた。のどかだった舗道は無慈悲に拡張され、今は小洒落たカフェが立ち並ぶばかりだ。

あの夏、ぼくは二十二歳だった。何も知らず、何をも恐れず、ただ若さだけを頼りに旅を続けていた。

たどたどしく、それでも小さな自負を持ってインドネシア語を操り、ほんの少しの金額をめぐってやっきになって店員と渡り合ったりもした。生まれて初めて日々を記したのもあの旅だった。

いくつかの後悔があり、いくつかの償いがあり、いくつかの別れもあった。

荷物を背負い直してため息をついた。ずっとここでこうしてはいられない。とにかく歩き出さなければ何も変わらないのだ。たとえそれがどんなスピードであっても、歩き続けることで何かを振り落とさなければならない。

目に付いたゲストハウスに飛び込んでは料金を訊ねて回った。何軒かで同じ事を繰り返して相場を頭に入れてしまうと、あとは値引き交渉にあたった。

一泊の値段を聞き出し、こちらから連泊した場合の金額を提示した。その値段に呆れてどこかへ行ってしまう宿主も一人ではなかった。ボスに聞いてくると言い残し、そのまま戻ってこないスタッフもいた。

結局、十五軒以上のゲストハウスを回った。

どうしてこんなことを繰り返してしまったのだろう。次から次へとゲストハウスに飛び込み、宿のスタッフたちに大声でわめき散らし、やり場のない喪失感を彼らにぶつけた。何のための値段交渉かさえ分からなくなっていた。自分をすっかり見失ってしまっていたのだ。

口をつく言葉は粗雑になり、嫌悪の眼差しには感情を剥き出しにし、いつしか「俺はゲストだ、物乞いじゃない」とまで口走っていた。最低だった。けれどもそんな自分の汚らしさに気付くことさえできなかった。

一軒のゲストハウスでそんなぼくを受け止めてくれた人がいた。彼女は七十歳を過ぎたあたりの品の良い婦人だった。スタッフと一緒に空き部屋を見て回り、値段交渉のために大声で捲くし立てていると、部屋の前に出てきた彼女は笑顔でこう言った。

「ギターを持って旅をしているのね?」

ぼくは言いかけたインドネシア語を飲み込み、思わず彼女を見つめた。

「孫と一緒にオーストラリアから来てるのよ。あなたはどちらから?」

そう言葉を続ける婦人の眼差しは、慈しむように深く穏やかなものだった。

「あなた、もしよかったらここに泊まってくださらない? ギターを聴きたいわ。あなたの声だからきっと優しい歌が似合うと思うの」

乱暴にインドネシア語をわめき散らしていたぼくの声を、婦人はそんなふうに表現した。

「ずいぶん日に灼けてるわね? 長く旅をしていたのかしら?」

何ひとつ返す言葉が見つからなかった。ぼくの中の何かが大きく揺らぎ、音を立てて崩れていった。荒れ狂う海辺の景色がふと凪いでしまったかのように。

「悪いね、一泊80,000万ルピア(約1,120円)なんだ。ディスカウントはできないよ」

スタッフは間隙を突いてにっこりと笑いながらそう繰り返した。それは値引き交渉が不発に終わったことを示す笑顔であり、同時にこの状況に対する許しの笑顔であるように思えた。

「ごめんなさい」

ぼくはスタッフに言った。「ごめんなさい。自分のことしか考えていなかった。こんなに大声を出してしまって、本当にごめんなさい」

スタッフは何も言わずにぼくの肩に手を置くと、耳元で小さくこんなことを言った。「あの人とお喋りするんだったらまだここにいてもいいよ。いつでも遊びに来ていいからね」

振り向くと、婦人の横にははにかんだ笑顔を向けるお孫さんの姿があった。「ハロー」と小さく手を振る無邪気な仕草に、もう一度ぼくは深い後悔を覚えた。本当にぼくは何をやってしまったのだろう。

婦人はそんなぼくにもう一度やさしく声を掛けてくれた。

「あなたの笑顔って最高よ。見ているだけで幸せな気分になるわ。さあどうぞ、こちらでゆっくり休んでちょうだい」
婦人は満面の笑みを浮かべ、空いていた椅子を勧めてくれた。

「きっと疲れているんでしょう? それとも何かつらいことでもあったのかしら? でも、もう大丈夫よ。落ちついて。私たちがそばにいるから」

素直に小さく頷くと、両目から涙が溢れた。

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