淀みに浮かぶ / ブラスタギ(1)
2003/08/12
ブキッラワンを離れたバスは、五時間ほどでブラスタギに到着した。ここは活火山に囲まれた高原の街だった。薄暗い雲に覆われた地上に影はなく、吹き抜ける風には冷ややかな雨の匂いが混ざっていた。
スマトラ島に入ってからもガイドブックが必要な場面を見出せずにいた。マレーシアでもタイでもそうだったように、どれだけ詳細情報を精査しても、次に向かうべき場所が書かれているわけではなかった。
記された文字列から行き先を選ぶよりも、生身の声で誰かが伝えてくれた街を目指す方がぼくには合っていた。観光客にすらなれない人間にできるのは、誰かの記憶をたどることだけだった。
バスは市街地に入ると徐々に速度を緩めた。巨大なモニュメントが聳える大きなラウンドアバウトに停車すると、何のアナウンスもないまま運転手はどこかへ消えた。
バスターミナルはこの近くなのか、これは彼らの休憩時間だろうか、それとも運転手の交代でもあるのか……。しばらく様子を伺っていたが、どうやらここが終点なのだと察した。バスの窓から見えた横断幕には「Pariwisata(観光)」という文字があった。
判然としない到着だったし、どの街でも繰り返される客引きたちの勧誘も一切なかった。うっかり途中下車をしてしまった。そんな静かな始まりの街だった。
高さ10メートルはあるだろうモニュメントのてっぺんには、戦いのさなかの兵士たちを象った青銅像が飾られていた。全方位からの敵を迎え撃つように、ある者は今まさに手榴弾を放とうとし、ある者は孤高の狩人のようにライフル銃を構えていた。
見渡すと、通りの名を示す標識がすぐに見つかった。ジャラン・フェテランと書かれていた。退役軍人通り。つまりこれはどういうことなのだろう。
青銅像の装備から推察できるのは近代戦の一場面だった。この土地で起きた大きな戦いで思いつくのは独立戦争しかなかった。あの銃口の先にいるのはオランダ兵なのか、それとも大英帝国に雇われたインド兵なのか。
詳しいことは何も分からなかった。ただひとつ、これほど目立つランドマークが他にないことは予想できた。この街の象徴なのかもしれなかった。
スラーターニーの街でもそうしたように、頭の中に広げた真っ白な地図にモニュメントとラウンドアバウトを描いた。そこから上下に線を伸ばし、ジャラン・フェテランと書き加えた。そんなふうに少しずつ線を伸ばしながら、しばらくブラスタギの街をさまよい歩いた。
見て回ったゲストハウスやロスメンはどこもパッとせず、ぬかるんだ道に足を取られてサンダルごと泥だらけにした。ひとつ分かったのは、宿泊料金が必ずしも設備や立地と釣り合うわけではないことだった。
結局、七軒目に訪ねた宿に決めた。大通りから一本奥に入った静かな路地にあり、一泊わずか20,000ルピア(約280円)だった。シャワーもトイレも共用だったが特に問題はなかった。不思議なもので、不便なぐらいの方がかえって居心地が良かった。
チェックインを済ませ、荷物をベッドの脇に放り投げて早速シャワーを浴びた。標高1,400メートルと言われる通り、肌に当たる水シャワーの冷たさは相当なものだった。一枚だけリュックサックに詰めこんでいた長袖のシャツを着込み、靴下を二枚重ね、小雨の降り出した高原の街をふたたび歩いた。
一軒だけあると教わったネットカフェに入り、たっぷり一時間かけて(ダイアルアップ接続だ)日本語IMEをインストールした。日本語で何人かの友人にメールの返事を書いたが、伝えたいと思う事柄は特になかった。今はまだ無事だということ以外に何が言えるだろう。
メールを打ち終えてしまうと、続けてニュースサイトの文字を追い、冷夏の日本を思い浮かべた。去年は冷夏ではなかったのかと気になったが、すでに大方の出来事を忘れてしまっていた。何を失ったかさえ思い出せなかった。
頬杖をつき、友人のウェブサイトをぼんやりと眺め、松岡正剛の千夜千冊をめくった。いつの間にか二時間が過ぎ、7,500ルピア(約105円)を支払って宿に戻った。
夕暮れ時、目についた食堂でナシチャンプルを注文した。蒸したライスに好みの副菜を選んで乗せてもらうだけの食事だった。アジのような青魚のフライに、茹でたホウレン草とポテト、上から二種類のカレーをかけてもらい、生水を煮沸した飲み水が付いてわずか4,000ルピア(約56円)だった。
添えられたフィンガーボウルで指を洗い、舗道にできた練り色の水溜りを眺めながら右手で食べた。グラスに注がれた生温い湯冷ましを口に含むと、なぜか急に物悲しい気持ちになった。随分と遠くまで来てしまった。旅に出ていったい何日が過ぎたのだろうか、と。
通り過ぎた街の姿を順番に思い浮かべ、滞在した日数を指折り数えた。クアラルンプール、マラッカ、メルシン、チェラティン、クアラトレンガヌ……。
今日でちょうど四十五日目だった。その日数が短いのか長いのかさえ、ぼくにはもうよく分からなかった。
ふと、こんな日々をうたかたと呼ぶのではないかと思った。淀みに浮かんでいるのは、きっと、いつだってぼく自身の方だった。