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ティナ / パラパッ(2)

2003/08/25

湖畔の寂れた街ですっかり足止めを食っていた。次の目的地ブキティンギへ向かうバスの予約がスムーズにいかなかったからだ。

日に何度も旅行代理店を訪れて最新の空き状況を確認した。乗車予定の夜行バスはメダン発で、パラパッより前で誰かが降車しない限りはシートの確保ができなかった。昨日も満席で、状況は今朝も変わらなかった。

何の収穫もないまま宿へ戻り、屋上にのぼって空を見上げた。爪で引っ掻いたような筋雲が、空の高いところを滲みながら流れていった。柔らかな陽射しが湖面で乱反射を繰り返し、サモシール島がその煌めきの向こうで白く霞んだ。

さまざまな場面が浮かんでは消えた。ぼくはもうあの島を離れてしまったのだと思った。

からっ風の知名度はパラパッでも相当なものだった。地元の男たちに呼び止められて一緒にギターを弾く機会があったが、彼らは「日本人のギター弾きを知ってるか?」とぼくに聞いた。素直に頷くと、口を揃えて「あいつは俺らの友だちなんだ」と自慢気に笑った。

いったい今、どれだけの人間がからっ風を知っているのかと不思議な気分になった。

午後の陽射しも落ち着き始めた頃、ふたたび旅行代理店へ確認に出掛けた。ガラス扉を開けた瞬間、スタッフは目を閉じて首を横に振った。ぼくも何も言わずに小さく頷いて、開けたばかりの扉をそっと閉じた。

帰り道、目についた小さな商店で予備の電池でも買おうかと立ち止まると、背後から「こんにちは!」と日本語で声をかけられた。はっきりとした日本語だったが、その声は、かすれ気味の、まだ若い女性のものだった。振り返る間もなく彼女の口から続けて発せられたのは、こんな英語の問いかけだった。

「Are you Japanese? You know Karakkaze?」

本当にどうなっているのだろう。ここでもまたからっ風だった。感心を超えてただただ呆れるしかなかった。

振り返って声の主を確かめると、寂れた食堂の入口でいたずらな笑顔を浮かべる少女の姿があった。ぼくと目が合うと、彼女は文字通り「へへへ」と笑った。

「ねえ今、からっ風って言ったよね? そりゃもちろん知ってるよ」とぼくは告げた。それから、地元の男たちの真似をして自慢気にこう付け足した。あいつは俺の友だちなんだ、と。

「あ、そう。ところでお腹すいてない? うち寄ってけば?」

とんだ肩すかしだった。昔の4コマ漫画なら確実にずっこけているところだ。彼女はぼくの言葉にはまったく興味を示さず、さっとぼくの腕を引いて小さな食堂に入っていった。「寄ってけば?」なんてものではない。軽い拉致だ。

突然の出来事に抵抗を示すぼくに、彼女は「まあまあ、いいじゃない」と、そんな目つきで一蹴し、ぼくを壁際のテーブルに押しやるとフフンと鼻で笑った。それから、インドネシア語で事務的にこう言った。

「お腹すいてるでしょ? で? なに食べるの? ごはん? 麺?」

その時になってようやく、かつてからっ風が話してくれた「パラパッのかすれ声の女の子」のことを思い出した。彼が言っていたのは彼女のことかもしれない。

ハスキーな声、背が低くて、とにかく強引で、拒否するとすぐ拗ねた顔をする。これがからっ風から聞いていた情報だった。こうやってむりやり食堂に座らせ、事務的にメニューを取り、気紛れに笑顔を見せるこの目の前の少女は、その特徴すべてに当てはまる気がした。

「ねえ、なに食べるの? 早く言ってよ。ナシゴレンでいい?」と彼女は苛立たしげに言った。

「んー、じゃあ、ミーアヤムで」

ぼくは笑いを抑えながら彼女に告げた。美味しくなかったらすぐ帰るからね、と。

驚いたことに、彼女は日本の女の子が言うのとまったく同じ口調で「はいはい」と面倒くさそうに日本語で言った。書きつけた伝票をボールペンごとテーブルに放り投げ、だるそうに店先のガスコンロへ向かった。

面白い、と素直に思った。ありえない接客なのは間違いなかったが、これほどユニークなインドネシア人に出会うのは初めてだった。

ミーアヤムを待つ間、彼女が果たしてからっ風の言っていた少女と同一人物かどうか、何か決定的な証拠はないかと考えた。しばらくして思い出したのは、からっ風のこんな言葉だった。

「俺がね、アイラブユーは日本語だと愛してるって言うんだって、そう教えてしまったわけですよ」

ガスコンロの前で忙しく調理をしている彼女に向かって、試しにこう問いかけた。「ねえ、愛してるってどんな意味か知ってる? もし知ってるんだったら、その言葉を教えてくれたのは誰?」と。

返ってきた言葉はやはり「Karakkaze」だった。彼女はいきなり満面の笑みを浮かべ、飛び跳ねるように振り向いて繰り返した。へへへ、からっ風!

彼女はティナと呼ばれていた。正しくはマルティナという名前だった。からっ風の言っていた通り、表情が豊かでユーモアがあり、すぐに拗ね、時おり人を小馬鹿にしたようにフフンと鼻で笑ったりと、なかなか飽きのこない可愛らしい少女だった。

ミーアヤムを食べている間、ティナはぼくの隣にぴったりと座って「美味しい? ねえ、なんか言ってよ、美味しいの? 美味しくないの? どっち?」と何度も訊ねた。そんなしつこさが逆に可愛らしくて、ぼくは敢えて無言のまま黙々と麺をすすった。

「ねえどっちなの? 食べてるんだから美味しいんだよね? あのさ、ちょっと何なの? なんか言ってよ。ねえ、美味しいんでしょ?」

実際のところ、そのミーアヤムはこれまでで一番まともな味のするミーアヤムだった。「どっち?」と訊かれたら間違いなく「美味しい」の部類に入るものだった。

けれども、簡単に美味しいと答えてしまうのはもったいない気がして、ぼくはだんまりを決め込み、時折フフンと鼻で笑ったりしながら、きれいにミーアヤムをたいらげてみせた。

どんぶりをテーブルに置き、ペットボトルの水をごくごくと飲み、それから笑顔でティナに告げた。

「美味しかったよ、すごく」

ティナは一瞬だけホッした表情を浮かべたが、次の瞬間「まあね、当たり前じゃない」とでも言いたげな目つきで、お返しのようにフフンと鼻で笑った。

食器を片付けた後、代わりにティナが持ってきたのは日本語のテキストだった。高校で三年間も日本語コースの授業を受けていたという。テキストを開くとあちこちにインドネシア語でメモ書きが添えてあった。そしてもう一度、ぼくにその意味や用法を訊いた。「これ教えてよ、何なのこれ?」と。

印象的、と言うよりもむしろ、翻訳の難しさを感じたのは「さようなら」の用法だった。学校では「Sampai jumpa lagi」の意味で「さようなら」を教わったという。もちろんそれも間違いではないのかもしれないが、その訳出は適切ではないとぼくは感じた。

さようならには別離の意味合いが多く含まれてしまう。つかのまの別れ、あるいは永遠の別れとして。

けれど、元々の「Sampai jumpa lagi」には「またね、じゃあね」ぐらいの意味しかないはずだった。英語にそのまま置き換えれば「Until meet again」となる。また会うまで。本当にさようならを告げたいのであれば、「Selamat jalan / tinggal」 の方がきっと相応しいだろう。

ぼくはその違いを、インドネシア語と英語を交えてティナに説明した。間違っても日本人旅行者に「またね」のつもりで「さようなら」と言わないように、と。

ティナは、ぼくのそんな説明をこまめにテキストの余白にメモした。「matane = sampai jumpa lagi」「sayounara = selamat jalan / tinggal」

言語を学ぶ上で難しいのが、こういう場面ごとのニュアンスだと思った。学校の勉強では一対一の意味に偏ってしまいがちだし、実際に使う際のニュアンスまで伝えられる教師の数も少ないのだろう。もちろんぼくのインドネシア語にしても同じことだった。こうやってティナと話をしながら、少しずつ修正を繰り返す必要があった。

そんなこんなで、つきっきりでテキストの大半をおさらいする羽目になってしまった。午後の遅い時間に食堂に入ったはずだったが、時計はすでに二十三時を回っていた。

途中で何度も眠くなり席を立とうとしたが、そのたびに「えー、帰っちゃうの?」という悲しげな顔をされ、同時に「えー、帰っちゃうの?」とインドネシア語で言われた。眠い眠いと伝えても、あと三十分、あと十五分、あと一分とせがまれ、宿に戻れたのは日付が変わる頃だった。

実に六時間以上もティナの勉強に付き合ったことになる。そして、ミーアヤムとミネラルウォーターの代金を彼女は決して受け取ろうとしなかった。

安宿のベッドに倒れ込み、全身を投げ出して目を閉じた。いったいこの疲労感は何なのだろうか。インドネシア語と英語と日本語が頭の中でごちゃ混ぜになっていた。まるで原子核の周りを旋回する電子モデルのように、ひとつの意味をめぐって三つの言語がぐるぐると回った。

けれど、こんな奇妙な混乱はどこか心地の良いものでもあった。おそらくティナの笑顔や真剣な眼差しを何度も見ることができたからだろう。長い旅の中で、たまには誰かの役に立つ日があるのも悪くなかった。

小さく息を吐いた。まるで言葉に色が付いているみたいだな、と思った。こんな感覚は生まれて初めてのことだった。

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