落日の火照り 後編 / ギリメノ(4)
2003/09/16
「俺の友達がお前に何かしたのか?」
ヨノは向かいの椅子に腰をおろしてそう言った。小柄で華奢な青年ではあったが、ぼくを見据える瞳の奥には冷えた輝きがあった。
「たいしたことじゃない。ただ、ありがとうが聞きたかっただけなんだ」
テーブルに置いたままになっていた煙草をくわえた。フィルターが触れた舌先にサッカリンの甘みが広がった。ため息がこぼれるのを隠したくて、すぐにマッチに手を伸ばした。
ヨノが不意にぼくの手を制した。視線をあげると、きつく唇を噛みしめるヨノの姿があった。
「この島に来るのは初めてなのか?」
そう問いかける彼の声には奇妙な翳りが混ざっていた。理由は分からなかった。仲裁に入ったはずの彼の心の中には、今、別の何かが大きく渦巻いていた。
「二回目なんだ。最初は1997年の夏。初めての海外だった」
「そうか……俺たちが来る前のギリメノを知っているのか。もっと、何もかもが静かだっただろ?」
搾り出すようにヨノは言った。かすかに声が震えていた。点けてくれたマッチの炎を互いの手のひらで包むようにして、タバコの先に燃え移るのを眺めた。甘く香るクローブの煙がふわりと宙に浮かんだ。
「以前は俺もあいつと同じだった。旅行者がみんな金に見えた。どうやって物をたかろうか、どうやって騙して金を巻き上げようか、そんなことばかり考えていたんだ」
ヨノは小さくため息をこぼし、すまなかった、と言った。そんな突然の告白に、ぼくは何をどう答えていいか分からなかった。
「申し訳ないと今でも思ってる。でも、そうするしかなかったんだ」
ヨノはそんなふうにして、これまでの人生についてぽつりぽつりと語り始めた。それはあまりにも悲痛なものだった。
もちろんこうした身の上を「よくある不幸話」として片付けるのは簡単かもしれない。あるいは内容の重さに嫌悪感を抱く人間がいてもおかしくないだろう。
けれど、今のぼくに出来るのは、彼の言葉をまっすぐ受け止めることだけだった。
父親を事故で亡くし、立て続けに母を自殺で亡くした時、ヨノはまだ十四歳だった。
「工事現場で足場が崩れて転落したんだ。父親は鉄骨で串刺しになってしまった。でも、本当につらいのは母親の方だった。父親が死んで、少しずつ狂ってしまったんだ。何度も何度もナイフで自分の身体を切りつけてしまうんだ。つらかったよ。どうすることもできなかった」
親類の助けを借りてどうにか中学校は卒業したものの、彼はすぐに働きに出なければならなかった。せめて三つ下の妹の学費だけは稼がなければと、進学を諦めた十五歳の少年は心に誓ったという。
はじめはバリ島の縫製工場で働いた。休みなしで朝八時から二十二時まで、少しの休憩を除いて働きづめだった。それで月給はわずか200,000ルピア(約2,800円)だった。
九ヶ月間それでも仕事を続けた。妹への仕送りを捻出するために彼が出来たのは食事の回数を減らすことだった。育ち盛りの十五歳は、そのころ二日で一食しか物を口にすることができなかった。
仕事場で倒れてしまったことが原因で彼は工場を辞めざるをえなくなった。役に立たない、というのが解雇の理由だった。食べるものもなく、路上でうずくまるようにしてそれからの何日かを過ごした。
もはや自力では立ち上がれなくなっていた時、文字通り彼を拾ってくれたのがバリ島のクタビーチで土産物を売りつける元締めの男だった。
男のもとで何日かを過ごし、やがて、命じられるまま、脅し文句としつこさを武器に法外な値段で土産物を売りつけることを覚えた。冷徹に拒絶を示した旅行者をナイフで切りつけさえもした。その日その日をそうやって生きつないだ。
「間違ってたんだ。本当にひどかった。でもそうするしかなかった。本当はいくら土産物を売ったって金にはならないんだ。ぜんぶ元締めの男に持ってかれてしまう。だから旅行者を襲ったんだ。日本人も何人か切った。あとは金を持っていそうな年寄りとか。何ひとつ相手に落ち度がなくても難癖をつけて脅すんだ。そうやって金を奪えば元締めに渡さなくて済む。ぜんぶ妹に送金できるんだ」
けれど、それも長くは続かなかった。タバコを覚え、酒を覚え、挙句に彼はマリファナに溺れていった。バッドに効いたマリファナで気分が悪くなり、起き上がれなくなることさえあったという。
旅行者から奪った金を手にして彼が次に目指したのは首都ジャカルタだった。どうにか精密機械の下請工場に働き口を見つけたが、そこで待っていたのは目を覆うような差別だった。
ロンボク島出身というだけで何かにつけて冷遇された。賃金も驚くほど低くされ、押し付けられる仕事量は他の従業員の倍だった。誰ひとり親しく言葉を交わせる相手も見つけられないまま物価の高いジャカルタで生き抜くのは、十七歳の少年には荷が重すぎた。
「ねえ」と、ヨノが思い出したかのように言った。「見せたいものがあるんだ。よかったらこれから一緒に行かないか? とっておきの場所なんだ」
言われるまま、ぼくは自然に立ち上がっていた。いつのまにかこの青年のことを信じていいと感じていた。淡々と語るその声の中に、何か大切なものが見えた気がしたからだ。ぼくは無意識にこう答えた。
「行くよ、もちろん」
ヨノは初めてホッとしたような笑みを浮かべた。
「悪いんだけど、もうちょっと話につきあってくれるか? いや、話したいんだ。誰かに聞いてもらいたいってずっと思ってたんだ。おかしいな、なんでお前なんだろ?」
ぼくは何も言わずに頷いた。気にしなくていい。こんなぼくでよかったら何だって話してくれて構わない。そんなことを心の中でそっと呟いた。
海岸線を西へ向かって歩きながら、案内できるようなものがこの島には何もない、とヨノは笑った。本当に何もないんだよ、と。それでもこうやって並んで歩く足取りが軽くなっていく気がした。それはヨノにしても同じだったかもしれない。
ジャカルタでの苦しい生活の中、妹への仕送りから残ったわずかな金を貯めて、彼はどうにかロンボク島へと戻ることができた。島を離れて三年後のことだった。
彼の頭の中にあったのは、変わらず金を稼ぐことだけだった。どんなことをしてでも妹を高校へ行かせたい。そればかりを考えていた。そんな彼の願いが向かった先は、奇しくもロンボク島のマフィアの一員になることだった。
そう、彼はほんの数年前まで、あのバンサルの港で旅行者を脅すマフィアの一人だったのだ。
大声で旅行者たちを恫喝し、嘘の情報を教え、無理やり支払わせた代金のコミッションで金を作った。アグレッシブだった、と彼は言った。
「ただそこにいるだけで金を持った旅行者たちが次々に来るんだ。みんな金に見えた。あとは毎日やることは同じだった。脅して、金を巻き上げるだけだ」
やがて、彼はもう一度マリファナに手を染めてしまう。吸う方ではなく、今度は売る方として。
「いちばんよく買ってくれたのは日本人だった。誰ひとり値切りもしなかった。声をかけるとみんな嬉しそうに笑うんだ。男も女もみんなマリファナが好きだったよ」
二年ほど前のある日、彼は売人として現物を所持しているところを踏み込まれ、そのまま刑務所に収監された。絶望だった、と彼は言った。こめかみには警官に蹴り上げられた深い傷跡が今も残っていた。
それでも刑務所にいる二年のあいだ、売人として稼いだ仕送りの金で妹はなんとか高校を続けられていたという。妹から届く手紙だけが希望だったとヨノは照れくさそうに笑った。
出所を機に彼はすべてから足を洗った。できることなら生まれ変わりたいとさえ思った。
バンサルの港を離れてギリメノにたどり着き、ゲストハウスのスタッフとして、また、この小さな食堂のスタッフとして働きはじめた。それが今のヨノだった。
シュノーケリングのガイドも始め、空いた時間で貝殻のアクセサリーを作っては売り、細々と生計を立てた。もちろん金は足りなかった。日に一度食事が取れればいい方だった。
それでもヨノはもう旅行者にたかり、金を脅し取り、何かをせびることをやめた。ヨノはこんなことをぼくに言った。
「君たちは休暇を楽しむために来てるんだ。金をばらまくために来てるわけじゃない。君たちはこの島全員にとって大切なゲストなんだ」
ヨノは今年で二十一歳だった。妹は十八歳になり、まもなく高校を卒業するという。
「俺の家族はもう妹だけなんだ。でもな、聞いてくれよ。あいつは俺と違って頭がいい。きっと、ちゃんとした仕事が見つかると思うんだ。実は妹から言われてるんだよ。お兄ちゃん、私が卒業したら帰ってきてって。ふたりで一緒に暮らそうって」
案内された先は、はるかバリ島を見渡せるギリメノの西海岸だった。
目に付いた小さなカフェに席を取り、ふたりとも何も言わずに空を眺めた。オレンジ色に崩れていく夕陽が、打ち寄せる波に乱反射しながら、喝采のように輝いていた。
「とっておきの場所なんだ」と言ったヨノの言葉を思った。彼はこの景色をぼくに見せたかったのだ。そう思うと、胸に熱いものがこみあげた。
けれどもうぼくは何も言わなかった。バリ島の名峰アグン山の向こうに、おしまいの光が沈もうとしていた。
二十一歳のヨノ。これもまたひとつの現実だった。美しい珊瑚礁に囲まれたこの島に生きる一人の青年の姿だった。