地獄の扉 / メダン(1)

2003/08/06

北スマトラの玄関口ブラワン港へ向かう国際フェリー「思い出」号は、この世の地獄としか思えないものだった。

ただでさえ狭苦しい船内には定員をはるかに超えた乗客が押し込められ、シートから溢れた人間は壁際の隙間で膝を抱えるしかなかった。運航規約も何も、常識的に考えて座席が足りないこと自体ありえなかった。救命胴衣の数さえ足りていないのは明らかだった。

床にがっちりと固定されたハードシートは間隔が異様に狭くなっていて、中寄りの席へ移動するには他の全員がすべて立ち上がらなければならないほどだった。

当然ながら大きなバックパックを抱えた旅行者たちには荷物を下ろす場所さえ与えられず、四時間もの間、彼らは膝の上で拷問のように抱え続けなければならなかった。

マラッカ海峡には穏やかなイメージばかりが先行していたが、実際は優雅な船旅とは程遠いものだった。

フェリーのサイズの問題か、定員オーバーが原因か、それとも単に操縦が荒っぽいだけなのか、あまりの激しい揺れに途中で吐いてしまう乗客が続出した。対処が間に合わなかった吐瀉物が床やシートや誰かのバックパックに飛び散り、強烈な臭いが船内に充満した。この臭いを外へ逃がす手段すらこのフェリーにはなかった。

うねるような縦揺れと強烈な臭いで旅行者たちは次々に倒れていった。誰もが負のスパイラルに飲み込まれ、逃げられずにいた。自力ではもう身体を支えられず、わずかに残った通路の隙間に崩れ落ちる者もいた。せっかく探し当てた隙間に吐瀉物を見つけ、絶望したように涙目で首を振る若い女性の旅行者の姿もあった。

そんな状況でいったい誰が望んでいるのか、船内には耳を塞ぎたくなるほどの大音量でインドネシア語の歌謡曲が流れていた。音の大きさにも陽気なメロディにも腹が立ったが、そもそもこういう的外れなサービスを押し付ける神経が理解できなかった。

出航から二時間ほど経った頃、ぼくの忍耐もいよいよ限界に達した。シートに座っていることさえ苦痛になり、このままでは吐いてしまうと、リュックサックをシートに置いて枕代わりにし、隙間に挟まるようにして床にしゃがみこんだ。

 さっきから船内のあちこちで悲鳴や叫び声が上がっているのに気づいてはいたが、床に腰を下ろしてようやくその意味を理解した。ここぞとばかりに無数のゴキブリが身体をよじ登ってくるのだ。

どこから集まってくるのか、ぼくの背中や肩や腕にもゴキブリが這い回った。わずかな水分にさえ事欠くように、ゴキブリたちは何度もぼくの目や口に突進した。発狂しそうになるのを必死で堪えた。

そもそも自由に身体を動かせる余裕などなかったから、ぼくに出来るのは両腕で頭を庇い、顔をリュックサックに押し付け、ゴキブリたちが諦めてどこかへ行ってしまうのを待つことだけだった。

このままではスマトラ島に辿り着く前に死んでしまうと本気で思った。吐瀉物とゴキブリにまみれた密室に四時間も閉じ込められるぐらいなら、いっそ今ここで殺してくれとさえ。

着岸に成功した頃にはほとんど意識を失いかけていた。誰かの踏み潰したゴキブリや放置された吐瀉物を跨ぎながら、それこそ這い出すような気持ちで船外に出た。清々しさも達成感も何もなかった。

ブラワン港へ着いたのは現地時間の午後二時過ぎだったが、それが当初の予定より早いのか遅いのかさえよく分からなかった。一緒に降り立った乗客の多くもすっかり抜け殻になっていた。そんな状態のぼくたちの耳元で、入国管理のスタッフは大声で喚き散らしながら誘導作業を続けた。

どうしてそんな音量で声を発しなければいけないのか、ここでもやっぱり理解できなかった。そもそも彼らが叫んでいるのはインドネシア語なのだ。入国審査が必要なのは外国人旅行者なのに、ほとんど伝わらない言葉で声を張り上げることにどんな意味があるというのだろう。

どうにか入国を済ませてイミグレーションの外へ出ると、ここにもまた大声で怒鳴り散らすバス会社の客引きたちが何十人という数で待ち構えていた。

彼らは険しい目付きで行く手を遮り、街の名前を大声で連呼し、何度でもしつこく食い下がった。まるで船内のゴキブリのようにぼくたちに纏わりついて離れなかった。

恫喝するように声を荒げることで、着いたばかりの旅行者たちから冷静な判断を奪うのが彼らの作戦なのは理解していた。けれど、ぼくにはもう無理だった。わざわざ立ち止まる余裕も、何かを言い合う力もなかった。

地獄を抜けた先の扉をようやく開けたと思ったら、そこにはまた新たな地獄が広がっていた。そんな最悪の気分だった。このスマトラ島という土地で、いったいぼくはあと何度こんな扉を開けなければならないのだろう。

救いなんてどこにもなかった。これが終わりの始まりなのかと思った。

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