愛はどこに / パラパッ(3)
2003/08/26
十日ほど前にブラスタギからこの湖畔の街へたどり着いた時も霧のような雨が降っていた。肌を濡らす冷たさではなく、大気に溶けた湿り気で認識するような雨。
今朝もまた、煙のように淡い雨がこの街をすっぽり包み込んでいた。板ガラスの窓から入り込むすきま風や、部屋を一歩出たその先の空気に、あの時と同じ雨の匂いがあった。
長距離バスの予約がうまく取れず足止めを食っていたが、二日待ってようやく今夜のバスに乗れることになった。最上位クラスの、ほぼ真横にまで倒れるリクライニングシートのバスに。
スーパーエグゼクティブと銘打たれたそのバスを選んだのには理由があった。旅の途上で何度も耳にした「スマトラ島は世界三大悪路のひとつ」という言葉を、すでに充分すぎるほど味わっていたからだ。
次の目的地ブキティンギまでは所要十五時間と聞いた。その数字だけで気が遠くなりそうだった。確かに値は張ったが(エコノミークラスの三倍だ)、それよりも快適さを選んだ。ぼくは苦行をするためにこの島へ来たわけではなかった。
バスはメダンを発ち、スマトラ島の幾都市かを経由してジャワ島まで行くという。距離にして本州縦断と同じぐらいではないか。次の目的地をブキティンギと決めていたぼくは、たとえ所要十五時間とは言え、その長大なルートのほんの一部分に便乗するに過ぎなかった。
今夜のバスが取れたことを伝えるついでに、宿のオーナーであるトニーの部屋へ向かった。促されるままギターを手渡され、いつものようにふたりでギターを弾いた。彼は以前「喜多郎」とセッションをしたこともあるちょっとしたギタリストだった。
ぼくがバッキングを担当し、トニーがソロを弾いた。すべてが彼のアドリブだったし、ぼくの鳴らすコードはどれも思いつきだった。けれど、トニーの弾くフレーズは素人の出す音の上にあっても自由で華やかだった。それでいてどこか郷愁を誘うフレーズの数々は、彼の身体にもまたバタックの血が流れているからだった。
トニーとのセッションは昼前に終わりを告げた。今からシアンタールへ行く用事があるとトニーは残念そうに言った。彼に合わせて早めにチェックアウトを済ませたが、バスが発つ夕方まで部屋を使っていいと言ってくれた。「鍵は妻に渡してくれよ」と笑うトニーの眼差しは寂しげだった。
「お前に会えて楽しかったよ。悪いな、見送りが出来なくて」
トニーはそう言って右手を差し出した。握手という行為は気恥ずかしさが先に立ってあまり好きではなかったが、流れに呑まれるまま、ぼくはその手をしっかりと握り返した。繊細なギターの音とは裏腹に、トニーの手は厚くがっしりとした父親の手だった。
ティナの働く食堂へ行ったのはそれからしばらくしてからだった。朝から何も食べていなかったことに気づき、数少ない選択肢の中からあの食堂を選んだ。
昨日の夜、ティナは勝手にこんな約束を取りつけていた。「ねえ、明日も来るんでしょ? 来るよね? だったら続き教えてよ。いいでしょ? はい約束ね、約束」と。
相変わらずの強引さと我儘ぶりにあてられてはいたが、彼女の胸のうちには、こうやって旅人を見送るだけの立場にもどかしさがあったのかもしれない。どれだけ心を通わせても誰ひとりここに留まる者はいないのだ。それは昨日、ティナのそばにいて強く感じたことだった。
食堂に向かうと、ぼくの姿を見つけたティナは両手でPの字を作ってこんなことを言った。「プロミス!」と。ぼくも片手でJの字を作り「ジャンジ(約束)!」とインドネシア語で返した。昨日よりも明らかに距離が縮まっていた。
ティナの作ったナシゴレンを食べながら、結局、出発時間ギリギリまで日本語の勉強に付き合うことになった。もうティナはひらがなとカタカナの使い分けまで思い出せるようになっていた。
「あのね、もし私が手紙を書くとしてね、例えばね、例えばだよ……。んー、もちろん例えばなんだけど、どんな書き出しだったら嬉しい?」
「日本語だと手紙の書き出しってロマンティックじゃないんだよ。だから、ティナの知ってる英語の書き出しでいいんじゃないかな? ハイとかディアとか」
「そういうんじゃなくて。例えばさ、ねえこれ、例えばだよ? 例えばもし、好きな人に送るとしたら……」
「ははーん。からっ風に送るんでしょ? 知ってるよ」
「うっるさいなー。いいじゃん別に。ほっといてよ」
「愛してるって書けばいいんだよ、最初から」
「は? 馬鹿じゃないの? どんな書き出しだったら嬉しいかって訊いてるんですけど!」
そんなやりとりが暫く続き、結局ティナがテキストの裏に書いたのは熱烈なフレーズばかりだった。しかもそれぞれの最後には、ご丁寧にぼくの名前を添えて。
「あのさ、ティナ。ひとつ聞いていい? 頭に ex. が付いてるけど、これってつまり……」
「だーかーらー。例えば(example)って言ってるじゃん、さっきから」
「すごく面白い。だってほら、ex. My sweet darling Taira. とかって」
「あのね、じゃあ言うけどね、あなたはからっ風みたいにかっこよくないけど。ねえ、いい? 全然かっこよくないですけど、まあでも優しいし? 親切だし? 教え方も上手だし? まあとにかくいい人だし? なんて言うか、わたし、あなたのことも好きだよ。でも cinta(love)じゃなくて suka(like)だからね。絶対に勘違いしないで。suka(like)だから!」
そんな言葉に、文字通り腹を抱えて笑ってしまった。ある意味正直で、ある意味デリカシーがなくて、そんな部分がむしろティナらしくてすごくよかった。こんなにはっきりと感情を言葉にしてしまう人間も珍しい。
だからこそかもしれなかったが、昨日と同様こうしたやりとりの間、ティナは何度もぼくに「私と一緒にいて退屈しない? ねえ、教えるの疲れた?」と訊いた。自分の感情はもちろん、相手の心の動きにも敏感に反応できる人間だった。ただそのやり方がちょっと破茶滅茶なだけで。
別れ際、何か記念になるものが欲しいと恥ずかしそうにティナは言った。「あなたをずっと覚えていたいから」と。
渡せるものなど何ひとつ思いつかなかった。試しに、何か挟まっていないかと文庫本をパラパラとめくったり、インドネシア紙幣を詰め込んだポケットを探ってみたりした。やはり何もなかった。
パスポートケースを取り出して小さなファスナーを開けてみると、奥の方にたった一枚、日本の五円玉硬貨が入っていた。
「ねえティナ、あのね、これ、日本の硬貨。五円。日本語にはゴエンって響きの言葉がもうひとつあってね、それはご縁っていうありがたい言葉になるんだよ」
出し抜けにぼくはそんなことを言った。思わず心の中で「おまえどこの爺さんだよ」と自分自身にツッコミを入れながら。
「は? ゴエン?」
「そうそう、ご縁。どう説明したらいいかな。インドネシア語だとちょっと分からない。でも、そうだね、英語だったら Something like a chance to fortune(幸運のきっかけになるもの)って感じかな。出会えてよかったとか、最初から運命として決まってたんだとか」
ティナはぼくの説明に対して露骨に眉をひそめ、「わたし今、絶対に騙されてるよね?」という不信感に満ちた表情を見せた。そんな反応が可愛らしくて、ぼくは無理矢理ティナの手に五円玉を握らせて席を立った。
「ティナ、いろいろ楽しかったよ。またね」
笑顔でそう彼女に告げた。けれどもティナがぼくに言った最後の言葉はこんな日本語だった。「またね? いいえ、さようなら。愛してる、タイラ」
*
八ヵ月後、ティナから一通の手紙が届いた。あれほど悩んでいた書き出しの部分はローマ字でこう書かれていた。「Hi Ogenki?」と。
そして、彼女の手紙の最後に書かれていた一文が不意にぼくの胸を打った。この我儘で気紛れな少女の心の内側を、以前よりもっと身近なものとして理解できた気がした。
Love is beauty but not every beauty have love.(原文ママ)
愛は美しさ。だけど、すべての美しさに愛があるわけじゃない。
いったい愛はどこにあるのだろう。それはぼくにも分からなかった。もしかしたら、通り過ぎた後でしか気付けない温かみのことかもしれなかった。
真剣な眼差しでテキストに向かうティナの横顔が浮かんだ。そして、ぼくらを包み込むように降り続いたパラパッの静かな雨の温度を思った。