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旅のはじまり

2003/06/29

クアラルンプール国際空港、午後六時五十五分。成田を発ってすでに九時間が経過していた。

空港内にあるエアポートコーチ社のバス乗り場に腰を下ろし、何度も小さなため息をついた。高架電車スターラインの「Chan Sow Lin」という駅まで行こうと決めていた。けれど、定刻を過ぎてもバスは姿を見せなかった。

あと何分こうしていればいいのだろう。無事に乗り込めたとして、それがどれほどの道のりになるかも分からない。

熱帯の粘りつくような暑さがじっとりと肌を包んだ。この感覚は六年ぶりだ。空には淡い琥珀色の光が溢れ、その下に静まりかえった一本の通りがあった。夜がすぐそこまで来ている。バスが着く頃、街はすっかり闇に包まれているだろう。

飛行機が滑走路にすべり込んだのは午後四時半過ぎだった。機内で隣り合わせた日本人女性に誘われ、そのままターミナルの喫煙所に向かった。降機の際、彼女にこう呼び止められていたからだ。

「あいにくマレーシアの小銭をたくさん持っているので、コーヒーご馳走しますね」

彼女はそんな言い方をした。余計な負担をかけまいとする心遣いに気づいて、胸の中で何かが小さな音を立てた。

彼女はクアラルンプールを経由し、これからインドのムンバイへ向かうという。ここはトランジットだった。彼女がマレーシアの硬貨を持っていたのは、もう何度もこのルートでインドへ渡っていたからだ。

「インドへ行くでしょ。すると一日500円とか1,000円とか、そういう生活になるのね。そのまま日本に帰ってもいいんだけど、なんて言うのかな、帰りにクアラルンプールに寄ってちゃんとしたホテル暮らしをしないと調子が狂っちゃうの」

「今回もクアラルンプールへ?」

「うん、帰りに三日間。シャングリ・ラってホテルで一日中ぽけーっとするの。身体中で思いっきりだらだら」

そう言って彼女は嬉しそうに笑った。

彼女がインドに惹かれる理由はひとつだった。子供たちの輝く瞳。その眼差しに出会うためにもう何度も足を運んでいるという。

「とにかく心を掴まれるって言うか、愛しさを思い出すって言うか。もう私、この子たちのためなら何でも差し出せるっていつも思うのね。いや、実際には何も差し出したりしないんだけど。でも、そうね、子供たちの眼差しだけで私は生きていける。そんな気持ちになれるの」

最愛の者を抱きしめるように彼女は言葉をつないだ。その声をぼくはひとつひとつ胸にしまった。子供たちを包む砂埃や街の匂いまでがすぐそばに感じられる気がした。

「やっぱり不思議なのね、なんだか」

ふと、彼女は思い出したかのようにそう言って、今度はぼくの顔をまじまじと見つめた。彼女はインドについてではなく今のこの状況に言及していた。

「不思議なのよやっぱり。こんなふうに声をかけたこと今までなかったんだけど。でもね、機内でずっとお喋りしてたじゃない? それで、なんだか安心してぐっすり眠っちゃったじゃない? いつもは不安になるのよ、飛行機。ほんとは苦手だし、墜ちるんじゃないかってドキドキするんだけど。ねえ私イビキかいてなかった?」

「大丈夫ですよ。聴こえないふりしてたから」

「やめてよ」

彼女はもう一度楽しそうに笑った。素敵な笑顔だった。彼女がインドの子供たちから元気をもらうように、きっと彼女の笑顔も多くの人たちを元気づけていくのだろう。たとえば今のぼくのように。

「ねえ、聞いて。あなたにだったら私、きちんと話せる気がする。どうして私がインドの子供たちに会いに行くか、その本当の理由……」

ぼくの目を見つめる彼女の眼差しをまっすぐに見つめ返した。彼女の身の上も背負ってきたものも、ぼくは何ひとつ知らなかった。でも、彼女の瞳にそっと宿る光の熱を、その時ぼくは感じ取ってしまった。それはまるでひとつの啓示だった。

「ごめんね」とぼくは小さな声で言った。「ごめんなさい。あなたの目を見ていたら分かってしまった。その、本当の理由……。根拠なんて何もないんだけど、でもきっと当たってると思う」

喫煙室はまるで巨大な燻製器のように煙っていた。わざわざ煙草を吸わなくとも副流煙だけで目的を果たせそうなくらいだった。彼女に手渡されたコーヒーを確かめるようにひとくちだけ口に含んだ。もう一度彼女に視線を向けた時、彼女は小さく肩で息をして口元だけで静かに微笑んだ。

「そうね、そうだよね。きっとあなたの感じたことで正しいんだと思う。ねえ、どうしてだろう? 私たちつい数時間前に初めて会ったのに、どうして通じちゃうんだろう? あなたといるとさっき会ったばかりって気がしない。あなたの声を聞いてるとそんな気が全然しないの」

彼女はそう言って、手のひらで包んでいたコーヒーの紙カップにかすかに力を込めた。ほんの少しだけ楕円にひしゃげる紙カップの縁がまるで何かの象徴のように思えた。マニキュアのほどこされていない彼女の白い指先をぼくはじっと見つめた。

「言ってみて、今あなたが感じたこと」彼女は、もう一度小さく微笑んで言った。「怒らないから。つらくなったりしないから。大丈夫、安心して。あなたが悪いわけじゃない」

小さく息を吐いた。こんなにも切ない沈黙を感じたのは久しぶりのことだった。今、ぼくが感じたこと。それはもうほとんど確信に変わっていた。部屋の片隅で立ち尽くす彼女の姿まで目に浮かぶようだった。

「……お子さん、いくつだったの?」

ぽつりとそう声に出した。その途端、彼女の目に涙が浮かんだ。でもそれを彼女は必死に隠そうとした。あはは、と声に出して笑った。それから小さく首を振って目を閉じてため息をこぼした。

「……死産だった。でも、かわいい男の子だった」

壁にかけられた時計の針はまもなく六時半を指そうとしていた。ムンバイ行きの飛行機は午後七時半に発つという。搭乗手続きはすでに始まっていた。そのことにふたりとも気付いていた。

「もう行きましょう?」

抱きすくめるようにぼくは言った。彼女はまるで子供のようにこくりと頷くと、先にぼくのリュックサックを持ち上げて手渡してくれた。その眼差しには慈しみにも似た深い温もりがあった。

何も言わずにターミナルの中をしばらく歩いた。彼女は乗り継ぎのゲートへ、ぼくは入国手続きをするためにエアポートシャトルの乗り場まで行かなければならなかった。

「見送ってもいい? あなたを見送りたいの」と彼女はぼくに言った。「あいにくもう何回もこの空港に来てるから、シャトル乗り場まで案内しますね」

彼女が「あいにく」と言うたびに、その言い方の底にある気遣いと優しさに胸が震えた。「つい数時間前に」そう言って笑う彼女の言葉を、ぼくは自分自身の言葉のように心の中で繰り返した。

「ねえ、私にもね、実は直感のようなものがあるの。あはは、ぜんぜん信じてないでしょう? でも聞いて。私にも直感のようなものがあるの。あるってことにしておいてほしいの、今だけでも」

別れ際、彼女はそんなふうに微笑んで言った。

「大丈夫よ、あなたなら素敵な旅ができる。大丈夫よ、絶対に大丈夫。でも九十三日間はちょっと長すぎるかな?」

ぼくはきちんと立ち止まって彼女の正面に立った。それから、さっき彼女がしたように小さくこくりと頷いて、その柔らかな笑顔にこう告げた。その言葉だけで全部伝わればいいのにと思いながら。

「行ってきます」

「うん、行ってらっしゃい」

手を振ることも握手を交わすこともせずにぼくたちは別れた。ターミナルを結ぶシャトルへと乗り込むとすぐに出発を知らせるアナウンスが響き、扉が音も立てずに閉まり始めた。

「さよなら」

どちらともなくそう口にした。アナウンスにかき消されながらふたつの声は所在無く宙を舞った。聞こえただろうかと彼女はそんな表情を見せた。きっとぼくも同じ表情をしていたに違いない。でもその言葉は確かにお互いの耳に届いていた。

勢いよく走り出すシャトルの窓から、遠ざかっていく彼女の後ろ姿を見つめた。壊れそうなほど細い背中だった。

さよなら。

旅のはじまりは別れの言葉だった。

 
− 完 −


熱帯の夜の底 / クアラルンプール(1)

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