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心の月 / クアラトレンガヌ(4)

2003/07/13

ツーリスト・インフォメーションの並びにあった郵便局で数枚の絵葉書を買った。南国の果実たちがまるで咲きこぼれるように写った葉書だった。

宿に戻り、屋上のテーブルで書こうかとリュックサックから手帳を取り出そうとして声を上げた。あるはずの手帳がどこにも見当たらなかった。すべて開けて念入りに調べたが紛失したことに間違いないようだった。

更に悪いのはどこで失くしたのか見当がつかないことだった。二日前に公衆電話から実家へ電話を掛けた際、そのまま電話機の上に置き忘れたのかもしれない。そんな思いが淡い煙のように心を覆った。

見つかる見込みはないと知りながらも公衆電話まで足を運び、周囲を隈なく見て回った。見つかるわけがなかった。近くに並んでいたフルーツ屋台の売り子たちにも訊ねたが、誰もが「見てないな」と繰り返すばかりだった。考えるまでもなくあたり前のことだった。

それでもなおどうにかして見つけたいという思いを振り払うことができなかった。もう一度彼らに今度は警察署の場所を訊ねた。ここから一キロ以上離れた場所にあるとのことだった。

きっとマレーシアの警察署にだって拾得物の窓口があって、もしかしたらその中に手帳が紛れ込んでいるかもしれない。確かめてみるだけの価値はあるだろう。ほんの少しの可能性に掛けてみたいと、そんな気分だった。

けれど、この判断が大きく間違っていた。

やっとの思いで辿りついた警察署には、そもそも拾得物預かりなどというセクションはなかった。警官たちはぼくの状況説明にいっさい興味を示さず、矢継ぎ早に質問を投げ返すばかりだった。

「おまえ日本人か? 何だよマレーシア人じゃないのかよ。で、何だ? アドレスを書いた手帳を失くした? 分からないね。それよりおまえどうしてマレーシアに来てる? こっちに友達はいるのか? いない? おかしいじゃないか、ここに何しに来たんだよ。学生か? 仕事してるのか? どこに泊まってる? 一泊いくらだ? まさかドミトリーじゃないよな?」

そんな質問にいちいち熱くなっては埒が明かないと、何度も自分に言い聞かせた。冷静にひとつひとつの質問に答えながら、今ここにいる理由は手帳が届いていないかの確認のためだと根気良く伝えた。しかし彼らが寄って集って言い返すのは「それで?」という冷たい響きだけだった。

すべてを諦め、丁寧に礼を述べて立ち去ることにした。勧められたパイプ椅子をいかにも大事そうに戻し、薄笑いを浮かべてありがとうと日本語で言った。彼らも瞬時に笑顔を見せたが、その瞳はまったく笑っていなかった。警察なんてどこも大差ないのかと思うと暗い気持ちになった。

宿に戻り、気分を切り替えようと水シャワーを浴び、屋上へ昇ってぼんやりと風に吹かれた。テーブルには既に先客がいて、その彼としばらく言葉を交わした。イギリスから来たアレックスという青年だった。

旅に出て初めて「君の英語は理解しやすいよ」と言われた。ネイティヴの彼が言うのだから悪意のないお世辞だったのだろうが、それでも理解しやすいと言われたことで気持ちが少し軽くなった。

アレックスもまたタイから旅を始め、ちょうど一ヶ月を過ぎたあたりだった。その土地の言葉をひとつでもふたつでも覚えて使いたいと、彼は少しバツの悪そうな笑顔で言った。

胸ポケットから出された紙切れにはマレー語の挨拶と簡単な会話の例文が丸っこい文字で書かれていた。

「プルフンティアン島で知り合ったマレーシア人に書いてもらったんだよ。これ、ぼくのテキストブック」

そう言って目を細めるアレックスもまた一人で旅をしてきた人間なのだと思った。

「日本語のも必要かな?」

笑いながらそんなことを言うと彼は本当に楽しそうに笑った。「大丈夫だよ、ぼくの知ってる日本人は英語を話してくれるからね」

悲しみをくれるのも喜びをくれるのも、結局は人間なのだと思った。

マレーシアという彼らの国でぼくはこんなにも疲弊し、こんなにも気持ちが荒んでいた。けれど同時にこうやって同じ旅行者という立場の人間から息継ぎの仕方を教わることができた。少しだけ何かを信じてもいいと、そんな気持ちにさえなっていた。

夕方から再び降りだした雨の切れ間で月が弱々しく輝いていた。満月になりきれない十三日目の月をぼくは心の中で満月にして眺めた。くよくよするなよと、遠くで笑う誰かの声が聴こえた気がした。

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