丘に吹く風 / ブキティンギ(6)
2008/09/02
インドネシア語で「高い丘」を意味するブキティンギの街をサンティと歩いた。街の中心である「丘のてっぺん」へ続く道は、深緑の木々にあふれ、吹きそよぐ風は一瞬の切実さを秘めて頬を過ぎていった。
「タイラさん、ねえ、タイラさん?」
そんなふうに名前を呼ぶサンティの声に、いつも少しだけ身体を屈めて返事をした。自然にそうしていたが、隣にいる誰かとの身長差を気にしながら歩くのは久しぶりのことだった。
「ここまで旅をしてきてどこがいちばん楽しかった? メダン? トバ湖?」
サンティは新体操の選手がするみたいに指先を伸ばし、肩に掛けた小さなバッグの紐をしっかりと握りしめて舗道の段差を跳び越えた。両足で上手に着地を決めると、彼女は満面の笑みでぼくを振り返った。
「まだ旅の話をしていなかったね。スマトラ島に渡る前、実はマレーシアとタイに行ってたんだよ。かれこれ二ヶ月ぐらい」
サンティとの距離があまり遠くならないように、ぼくも続けて段差を跳び越えた。
「二ヶ月も?」
「そう、二ヶ月も。あんな小さなリュックサックで。今になって思うと、どこも同じぐらい楽しかった。だから一番は決められないよ」
通り過ぎてきた街並や空の青さ、すれちがった人々。そんな記憶のどれかに一番をつけることはできなかった。良いこともそうでないことも、全部ぼく自身の旅だったからだ。
「でもね、覚えてるのは、空の色がみんな違うってこと。クアラルンプールの空も、チェラティンの空も、スラーターニーも、ピピ島も、ブキッラワンも、ぜんぶ違う青だった。どれが一番ってわけじゃなくて、どれも美しいって感じたんだよ」
「ブキティンギの空も綺麗でしょう?」
サンティの言葉に笑顔で頷いた。目の前に広がる九月の空に目を向けると、刷毛で引いたような薄い雲が光と影の模様を描きながら、さらさらと丘の稜線へ流れていった。
「タイラさん。夜はね、ここから星がいっぱい見えるの。月だってすごく綺麗。だから私はこの街が好き」
そう言い切るサンティの笑顔が淡く透き通って見えた。一瞬が永遠みたいに甘く溶けていった。
「私はこの街しか知らないから、いつか別のところにも行ってみたい。だって、ジャカルタにすら行ったことないんだよ。同じインドネシアなのに。この国の首都なのに。だからもし、いつかどこかに行けるんだったら、私はいちばん最初にタイラさんが好きな場所に行ってみたい」
パサール・アタスへと続く長い階段を、追いかけっこをするみたいにふたりで登り切り、息を切らせながら後ろを振り返った。眼下には彼女の愛する街が遠く広がっていた。
「さて、ここから私がタイラさんのガイドをします!」
ぼくとの距離をほんの少しだけ詰めるように足を踏み出して、サンティはそう声高らかに宣言した。もう楽しくてたまらないと言うように。
「まず最初に洋服屋さんに行きます。タイラさん、洋服屋さんは好きですか? 女の子はね、お気に入りの洋服屋さんをふたつぐらい持ってるものなの。知ってた?」
「ふたつぐらいってのは知らなかったな」とぼくは笑った。「サンティさんにはいくつあるの? そういう洋服屋さん」
「ん? ふたつ!」
迷路のように入り組んだ市場の中を、一緒に宝捜しでもするみたいに歩いた。日用品を扱う店、貴金属、腕時計、文房具。布地の問屋もあれば、ジーンズだけを専門に扱う店。女性の下着をまるで刈り取った牧草みたいに山積みにして売る店もあった。
特に目新しいものがあるわけではなかったが、市場には柔らかな日常の情景が溢れていた。どこか切なく懐かしくて、そんな普通っぽさが、旅の途上にあるぼくの心を温めてくれた。
途中、小さな屋台でドーナツを買った。プレーンのものとココナッツフレークが乗ったチョコレートのものを。それぞれ三つずつ計六個で2,000ルピア(約28円)という安さだった。
頑張ればひとくちでも食べられそうな大きさだったが、歩きながら、交互に「はんぶんこ」をきちんと六回くりかえした。口の隅にココナッツフレークがついているのを指摘され、そのままサンティが指先で拭ってくれた。
お気に入りの洋服屋さんをふたつ回り、その足でブンドカンドゥン公園の中にある動物園へと向かった。
「ねえ、サンティさん。でもどうして動物園なんだろう? 今日のコース」
恋人たちや家族連れでにぎわう公園を歩きながら、そんな出来の悪い質問をした。
「だってそれは、ここがブキティンギのデートコースだからです! でもね、動物園だけじゃないの、まだまだいっぱいあるから。博物館でしょ、デ・コック要塞でしょ、それから……」
「もしかしたら今日、ぜんぶ回るのかな?」
「だって今日はデートだもの!」
サンティはちょっと拗ねた顔で返事をした。そう言ってしまった後で、彼女はまた恥ずかしそうな笑顔をぼくに向けた。そんな仕草がたまらなく愛しかった。
丘の上にある動物園は広大で、すべてを回るには坂道や階段を何度も登ったり下ったりしなければならなかった。それでもふたりで、オランウータンを相手ににらめっこをしたり、死んだように身動きひとつしない巨大なアリゲーターに号令を掛けたり、ベンチに腰掛け、近寄ってきた野良猫を膝に抱いてかまったりしながら、たっぷりと時間をかけて過ごした。
吹き抜ける風が、不意に彼女の髪を揺らした。何かをそこへ留めたいと願うように、風はささやかな音を立ててふたりの間を通り過ぎていった。
途中何度かサンティの知り合いにすれ違ったが、そのたびに彼女の友人たちは口元をほころばせながら「彼、恋人なの?」と訊いた。照れくささと背中あわせの、あのからかいにも似た笑顔とともに。
敬虔なムスリムであるミナンカバウの人たちにとっては、こうして一緒に歩いているだけで「そういう関係」ということになってしまうのだろう。つまり、公認の仲だ、と。
もしかしたらサンティの心の中には「家族にも挨拶は済ませたし、だからもう私たちは……」と、そんな思いがあったのかもしれない。いや、そうであってほしいと願っていたのだろう。だからこそ、そんな質問をされるたびに現実とのギャップに気付いて、彼女はすっかり戸惑っていた。
「今ね、彼は日本語を教えてくれていて、そう IBTI でいつも一緒でね。それでその、えっと……」
ぼくが旅行者であるという事実を誰よりも理解していたのは彼女だった。だからこそ余計に、そんなサンティの姿を見るたびに、ぼくは自分がとてつもなくひどいことをしている気分になった。彼女の気持ちに応えることはできなかった。ぼくはただの旅人でしかなかった。
最後に向かったのはシアヌッ峡谷を見渡せるパノラマ公園だった。そしてここが今日のコースの最終目的地。
折り重なるように葉を茂らせる木々の下を、ぼくたちは言葉も交わさずに歩いた。木漏れ日の揺れる公園の舗道には、懐かしいような切ないような、そんな冷やりとした土の匂いがあった。
峡谷を見渡せる展望台のフェンスに寄りかかりながら、しばらく、何も言わずにその光景を眺めた。切り立った崖が遥か眼下に沈み、深い森が、その鋭さを覆い隠すように重なりあっていた。空には一筋の雲もなく、青く透明な空が峡谷のずっと先まで続いていた。
「……帰りましょう」
そう口を開いたのはサンティだった。振り向くと、そこには何かを言いたくて、でもどうしても声に出せずにいる、傷つきやすい十九歳の横顔があった。
ふと、今ぼくがもし彼女と同じ十九歳だったらどうだったのだろうと思った。根無し草な旅の途中で、いくつもの偶然が重なり、こんなにも穏やかな時間を過ごせる女性と出会えていたら、いったいぼくはどうしていただろう。
答えは明らかだった。100パーセント恋に落ちている。ぼくは彼女を離さないと願うだろう。
でも実際に言葉にできたのはまったく別のものだった。こう言葉を掛けることしか今のぼくには出来なかった。
「こうやって一緒に歩きながら景色を見たり空を見たりおしゃべりをするのって、すごく楽しいことなんだね。今日、本当にありがとう。サンティさん、ぼくもこの街が好きになれた気がするよ」
「……私も楽しかった。ううん、ありがとう。本当に、本当に楽しかった」
彼女はそう言ってしまってから、不意に顔を逸らした。堪えていた涙が彼女の頬を静かに伝った。こぼれ落ちる寸前の一粒が、彼女の口元でどこへも行けずにためらっていた。
「サンティさん」ぼくはそう噛み締めるように言った。
「ここからはぼくがサンティさんを案内します。一緒に学校まで帰ろう。ミニバスでもいいけど、せっかくだから馬車に乗って帰ろう。ほら、入口に何台も待っていたよね? あれに乗ってみようよ」
もう一度、ぼくは雲ひとつない青空を見つめた。峡谷から吹き上げる風が耳元で小さく鳴いた。ここにぼくの暮らしはない。けれど、本当にこの街を好きになれた気がした。サンティの愛するこの高い丘の小さな街を、このぼくも。
「私、もう少し一緒に歩きたい。学校まででいいから、バスでも馬車でもなくて、一緒に歩いて帰りたい」
しばらく経ったあとで彼女はそう呟くように言った。小さな声だったが、それでも彼女の顔にはほんのわずかな笑顔が戻っていた。
何も言わずに、ぼくはそっとサンティの手を取った。彼女の手は子供みたいに小さなものだった。
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