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冷えた刃 / クアラトレンガヌ(2)

2003/07/11

イライラが頂点に達していた。

食事をしにゲストハウスを出たものの目に映るすべてに気持ちが萎えた。特に何があったわけではない。あるのは彼らの暮らしだけだ。そしていくら旅を続けてもぼくが身体のすべてを投げ出せる場所など何処にもないことはもうとっくに理解していた。

長距離バスターミナルに足を踏み入れたところでバスのチケットを買わないかと声を掛けられた。インド系の男だった。無視を決めて通り過ぎようとしたが、男は右手に握りしめたチケットの台紙を振りかざして執拗にまとわりついてきた。要らない。ぼくはそう呟いた。要らない、向こうに行ってくれないか。

いつもなら口元に笑みを浮かべて何度でも必要ないと伝えることができた。けれど今日は駄目だった。乱暴にシャツの袖をつかまれ、「なんで買わないんだよ」と食い下がる男のしつこさに我慢ができなかった。

歩みを止め、男の目をギュッと睨みつけ、気がつくと腹の底から大声で怒鳴っていた。

「触んなよ。要らないって言ってんだろ。あっち行けよ」

口を突いて出たのはインドネシア語だった。マレーシアに在りながら、マレー語でも英語でも日本語でもなくインドネシア語で相手をなじっていた。けれど、男は声の大きさに怯むでもなく、かえって激しく逆上したようだった。

男はぼくの首に掴みかかり、声を荒げて「謝れよ」と言った。わけが分からなかった。怒り狂う男の両腕を力任せに振りほどき、ぼくは背中を向けて歩き出した。

男は諦めなかった。立ち去ろうとするぼくの前に立ちはだかり、何度も何度も「俺に謝れ」と怒鳴った。血走った男の目は本物だった。

ぼくは大きく肩で息をつき、男の顔をまっすぐ睨み返してこう告げた。「おまえが謝れよ。」それからきつく握りしめた右手のこぶしを男の顔の高さに上げた。この意味分かるだろ、と。

突き飛ばすように男を押しやり、バスターミナルの出口へ歩き出した。男はまた何か言ったがそれはもう叫び声ですらなかった。しばらく歩いたところで振り返ると、男は尻のポケットから何かを取り出すところだった。不審に思い、足を止めて男の手許を見つめた。

手に握られていたのはナイフだった。細身の、フルーツナイフのような。

男はぼくの背中にそれを突き立てるつもりだったのかもしれない。けれど、それ以上男が追いかけてくる気配はなかった。握りしめられたナイフの冷えた輝きが暮れかけた街で眩しかった。その光だけでもう充分にぼくの中の何かを切りつけていた。

対岸へ渡るボートを待つ人々がトレンガヌ川のほとりに集まっていた。川が眠りに就く時間が迫っている。川べりの道に腰を下ろし、夕陽に照り返る琥珀色の水面を眺めた。折り重なるように浮かんでは消える光の連なりを、ひとつひとつ胸の奥に仕舞った。

どこからかドリアンの腐敗臭が漂い、すえた干し魚の匂いと混ざって、街をひどくみすぼらしいものに変えた。そして今、その真下にしがみついているのが自分なのだと思った。

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