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月へのチケット / メダン(2)

2003/08/06

護送車のようなバスに押し込められて市内へ向かった。行き先はひとつ、メダンということだけだった。バスターミナルに着くのか、それとも別の場所なのかとインドネシア語で訊ねても、客引きの男は投げやりにメダンと吐き捨ててどこかへ消えた。もう行き先なんてどこでもよかった。

汚れきったバスの窓枠にもたれて流れ去る景色を眺めた。港から市内へと向かう道から見えたのは、崩れかけたバラック小屋と時代から見捨てられた廃屋ばかりだった。そんな場所にも必ず人の気配があることが余計に悲しかった。

マレーシア、タイと通り抜けてきて思うのは、スマトラ島の強烈な貧しさだった。それは取り出して目の前に差し出せるぐらいの惨状だった。

大モスク「Masjid Raya」のすぐ南にあるゲストハウスにチェックインした。名前すらよく分からなかった。バスに居合わせた青年がいきなりぼくの肩を乱暴に掴み、インドネシア語で吐き捨てるように言ったのだ。「お前はここで降りろ。あの道に入れば宿がある」と。

宿のスタッフに案内されたのはベッドが六つ置かれたボロボロのドミトリーだった。薄汚れた床の中央にはロッカー代わりの木箱が無造作に並べられ、窓やドアにはこじ開けられた跡が生々しく残っていた。身を切るような現実に目眩がした。

ゲストハウスの前にたむろするベチャを一台雇い、ひと通りの街案内を頼んだ。インドネシア語が通じたことで交渉はスムーズに運んだ。

そもそもインドネシアの通貨すら持っていないことを伝えると、ベチャの親父はルートに両替所も付け加えてくれた。当たり前だ。そうでなければさっきのバスと同じようにマレーシアの通貨で支払うことになってしまう。法外なレートでふっかけられても為す術がなかった。

スーパーマーケットで水が最も安く買えることを教わり、銀行や食堂街や観光案内所、電話局やネットカフェなどを回ってもらった。途中、両替所でインドネシア通貨のルピアを手に入れ、文具店に寄って絵葉書を買った。小さな商店で定価販売の水を買い、ついでに石鹸と蚊取り線香も揃え、宿の近くの食堂の前で別れた。

ベチャの親父はしきりに明日以降の予定を聞き出そうとした。けれど、そんなものはぼくにだって分からなかった。ここに飽きたら次の場所へ行く。それだけだった。言葉に出来る予定など何ひとつなかった。

食堂でたいして旨くもないナシゴレンをかきこみ、景気付けにビンタンという銘柄のビールを飲んだ。遠くから聴こえるアザーンの歌声さえも、どこか虚ろで投げやりなものだった。

ゲストハウスに戻って水シャワーを浴びたが、心が休まることは一度もなかった。気がつくといつでもトラブルに巻き込まれた際の対処をシミュレートしていた。結局ぼくにできるのは受け入れることだけなのかもしれない。そう思うとひどく虚しい気分になった。

敷地内には、所在の分からない青年たちが何をするでもなく座り込み、旅行者をつかまえては下らない戯言を繰り返していた。日本人のぼくを見つけると立て続けにこんなニホンゴを発した。

「オンナ好キカ?」「マリファナ吸ウカ?」

結局、すべての話が収束する場所はそこだった。

「ニホンジン、オンナネー、ミキサンネー、ハッパ好キネー、セックス好キネー」

彼らが話していたのは旅先で大麻や買春に溺れる日本人の男のことではなかった。ミキサン。かつてこの宿でマリファナをきめ、彼らを相手に乱交騒ぎをしたミキという名の二十歳の女子大生のことだった。

彼らはひとしきりミキについて話をした。時には耳を覆いたくなる単語や、彼女の真似だろう卑屈なあえぎ声を何度も織り交ぜて。まだ昼間の光が残っている時間だったが、彼らは既にマリファナできまっていた。

「ミキサンネー、ワカラナイヨー、シラナイヨー」

その言葉の意図するものがつかめず、なぜか嫌な予感だけが胸に広がり、彼らの拙いニホンゴが示すものをインドネシア語で訊き直した。彼らは顔を見合わせて下卑た笑い声をあげた。彼女のその後なんて誰ひとり知らない。つまりそういうことだった。ミキサン、ハッパ好キネ、セックス好キネ。彼らが知っているのはそれだけだった。

「コレやってるとお腹が空かないんだ、何も食べなくたって生きていける」

彼らのうちのひとりが、へらへらと笑いながらインドネシア語で言った。「お腹空いたら声かけてよ、お前だったらタダで分けてやるから」と。

遠目から見たら彼らはみな陽気で楽しげな仲間たちに映っただろう。けれど実際はそうではなかった。

ろくに仕事もなく、食事にもありつけず、昼間からマリファナをきめて笑い呆けているだけだ。これがメダンという町の現実だった。人間の尊厳だの何だのと、そんなものはどこにも見当たらなかった。あるのは救いのない頽廃ときな臭い欲望だけだ。

「Ada karcis ke bulan. (I have a ticket to the moon.)」

一人の青年が薄ら笑いを浮かべて言った。「月へのチケットを持ってるんだ」と。彼の右手には小さなビニール袋に入った薄茶色の草が握られていた。

大きくため息をついた。メダンよ、お前はどこへ行こうとしている?

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