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恋 / ブキティンギ(5)

2003/09/02

日本語クラスのない火曜日、学校のいつもの部屋で彼女の到着を待っていた。サンティ。彼女はマンダリンクラスのアシスタントを務める十九歳の大学生だった。ベテラン講師たちに混ざって教鞭を取る彼女は、生徒たちから友人のように慕われ、時に頼れる姉のように愛されていた。

サンティはさまざまな言語を話すことができた。日常語であるミナンカバウ語はもちろん、公用語のインドネシア語、英語、マンダリン、フランス語。そして、少しの日本語まで。初めて会った時、彼女は満面の笑みを浮かべて日本語でこう言った。

「はじめまして、こんにちは! わたし、日本語分かりません!」

彼女と言葉を交わせるのは昼休みか授業後のわずかな時間だけだった。他愛の無い話でせっかくの時間を無駄にしたこともあったが、彼女の話すインドネシア語訛りの英語は、いつでもぼくの心をやさしく撫でていった。まるで大きな夜空にささやかな星を見つけた時みたいに。

インドネシア語の響きは本当にやさしいものだった。

スハルト政権が崩壊した日、あるイギリスのメディアはその様子をこんな言葉で伝えた。「やさしい言葉のクーデターだ」と。テレビから流れるハビビ新大統領の就任演説を見つめながら、ぼくも確かに同じことを感じていた。これはやさしい言葉で推し進められた民主化運動なのだと。

昨夜、授業後に校長先生の車でパサール(市場)まで買出しへ行った帰り、後ろのシートに座っていたサンティが意を決したようにこんなことを言った。

「タイラさん、あなたを家族に紹介したいの。急なんだけど、今からちょっと来てもらってもいい?」

インドネシア流のもてなしにすっかり慣れていたぼくに大きな躊躇いはなかった。ひとつあるとすれば、ここブキティンギの人々はインドネシアでも指折りの敬虔なムスリムだということだった。

とはいえ、サンティの家族はみなクリスチャンだった。それで何かが解決するわけではなかったが、いずれにしても、こうした保守的な環境で、未婚女性が家族に男性を紹介するという行為が意図するものに、一抹の不安がないではなかった。

パサール・バワと呼ばれる市場を右へ折れた先にサンティの家はあった。稜線に沿うようにしてこぢんまりと可愛らしい戸建がいくつも並び、彼女の家はそのいちばん上だった。壊滅的なほど雨にぬかるんだ泥の坂道を、彼女の背中を追いかけながら這うように上った。

家に通されると、サンティは奥から母と妹を連れてにっこりと笑った。彼女はミナンカバウ語で二人に何かを言った。

「こんにちは、はじめまして」と、イイップの時と同じようにインドネシア語で挨拶をした。それからサンティに向かって、かつての彼女と同じフレーズを付け加えて片目を閉じた。「私、インドネシア語、分かりません!」と。

決して笑いを取りたいわけではなかった。こんな場面でおどけてしまったのは、娘がいきなり外国人男性を家に連れてきたことへの驚きと緊張を、少しでも和らげたいという思いがあったからだ。

「タイラさんは今 IBTI で日本語を教えてくれてるの」と、サンティは顔いっぱいに笑みを浮かべてぼくを紹介してくれた。彼女の母は目を細めてぼくに微笑み、何かを確かめるように小さく頷いた。

会話はすべてサンティを経由して行われた。彼女の母が話すミナンカバウ語をサンティが英語に直し、ぼくも敢えて英語で返すことにした。きっと、サンティの中には、そうした方が都合の良い理由があったのだろう。

奇妙なぎこちなさを少しでもほぐせればとは思っていたが、実際のところ、あまり長居もしていられなかった。校長先生が下で待ってくれていたし、これから一緒に夕食の支度をすることにもなっていた。

結局、二十分もしないうちに彼女たちにいとまを告げた。出された紅茶に手をつけなかったことを詫び、それから丁寧に礼を述べて席を立った。

「お気をつけて」と彼女の母は言った。「下まで送るね」と、サンティは柔らかな声で言った。妹も一緒にぼくを見送ってくれるとのことだった。

通りへ戻る細道は来た時よりも数倍歩きにくかった。油断をすると簡単に足を取られ、一気に下まで転げ落ちそうになった。本当に笑いを取りたいのであれば、そのまま下まで転がった方がよかったのかもしれない。

サンダルにぎゅっと力を込め、大地を足の裏で掴むようにして歩いた。前を行くサンティは時おり歩みを止め、「ここ、気をつけてね」と笑顔で教えてくれた。事前に言われて用心しなければ本当に下まで転げ落ちそうなほど、ぬかるんだ道はぼくの足からするすると逃げていった。

「ところでさっき、お母さんになんて言ってたのかな? ミナンカバウ語だったから分からなかったよ」

ようやく道も落ち着き、会話できるだけの余裕が生まれたところでサンティに訊いた。説得するような彼女の口調がずっと気になっていたからだ。

「ううん。大したことじゃないの。明日ね、タイラさんと一緒に動物園に行くからって、そう伝えたの」

まただ、と思った。こういう展開になるたびにいつも感じていたことだった。こうやってまた、ぼくの知らないうちに話が進んでいた。どうやら明日サンティと動物園に行くことになったらしい。その了承を取りつけるために、こうしてぼくを家族に紹介してくれたのだ。

あまりにインドネシア的な展開に笑いを堪えることができなかった。呆れてしまったわけではなく、こんな演出をしたサンティの気持ちが愛しく思えた。

 *

時計は午前十一時を回っていた。「お昼ぐらいに」と約束をして昨日は別れたはずだったが、階下へ降りるとサンティはすでに来ていて、小さな鏡で前髪を必死に直していた。ぼくにはまだ気付いていなかった。

ふと、喜劇みたいな展開になるかもしれないと馬鹿げたことを思った。今ここで突然声をかけてびっくりさせたらどうなるだろう。彼女はあたふたしながら鏡を後ろ手に隠し、慌てて照れ笑いを向けるに違いない。漫画みたい。ラブコメみたいだ。

大きく息を吸って、唐突に「おはよう!」と声をかけた。案の定、彼女はその声に慌てて立ち上がり、手鏡を後ろに隠しておろおろした。すごい。本当に漫画みたいだ。

彼女は顔いっぱいに照れ笑いを浮かべ、「見てたの?」と恥かしそうに言った。あまりに予想通りの展開にすっかり感心しながら、ぼくは小さくうなずいてサンティに言った。「前髪、直ったね。大丈夫だよ、すごく可愛いよ」と。

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