空色の悲しみ / ウブド(4)
2003/09/20
数日前まで泊まっていたゲストハウスにチェックインして、すでに二日が過ぎていた。
長旅の疲れか、それともキレイ好き女王のお母さんに再会できた安堵なのか、ウブドに戻って以来ほとんど何もしていなかった。九時過ぎにベッドを這い出し、ぐずぐずと宿の朝食を胃に収め、ラタンの長椅子に寝転んで本を読みながら過ごした。
夕暮れ近くになるとクトゥの貸本屋へ出掛けた。いつものように他愛もない会話で笑い、読み終えた本と引き換えに新たな一冊を選んでポケットにしまった。
帰り道にローカル向けの食堂で夕食を済ませ、部屋に戻って新たな本のページをめくった。事件は何も起こらなかった。
非日常だったはずの旅が、日常という名の緩やかなパターンに組み込まれつつあった。明日も明後日もきっと似たような一日になるだろう。そう思うと、奇妙な安らぎと寂しさが、干渉するふたつの波紋のように胸に広がった。
この旅最初の夜、クアラルンプールのゲストハウスで感じた不安を思い出した。旅行者としての熱意もなく、居住者としての自覚もなく、どこにも属さない宙吊りの立場のまま、ぼくは今こうして旅が終わるのを待っているだけなのだと思った。
2002年10月の爆弾テロ以来、バリ島を訪れる観光客の数はすっかり減ってしまったという。実際に数字を確かめたわけではなかったが、そんな話をこれまで何度も耳にしていた。バリ人からも、多くの旅行者の口からも。
死者200名を超える大惨事となったあの事件が、この島に甚大な痛みを残したのは明らかだった。彼らの仕掛けた爆弾は、観光収入で成り立つこの島の生活基盤そのものを奪い去っていた。
ウブドでも物乞いの姿をよく見かけた。六年前ではとうてい考えられないことだった。
彼らの多くは子連れで、中には乳飲み子を抱えて立ち尽くす若い母親の姿もあった。子供たちはみな煤けたボロ布をまとい、ふわふわなはずの髪は汗と油でべっとりと絡み合っていた。無邪気に差し出される小さな手のひらは、どれもが切ないほどに泥まみれだった。
けれど、そんな彼らを手助けするバリ人に出会うことはなかった。あいつらはジャワ島から来たムスリムだ、あっちはロンボク島から来たムスリムだと、彼らは嫌悪の眼差しで吐き捨てるばかりだった。勝手に我々の島にやってきてイメージを悪くしている、とうてい許せるものではない、というのが彼らの言い分だった。
そして同時に、通りで見かけたバリ人の青年のTシャツにはこんな文字がプリントされていた。
Don't be permitted the Terrorists win
Please support our BALI
テロリストたちを許してはいけない
我々のバリを支えてほしい
道端に倒れ込み、ただ宙を彷徨うだけのムスリムの子供たちの瞳を前にして、ぼくにできることは何もなかった。そして、彼らを敵視するバリ人たちを支えることもぼくには出来なかった。バリ・ヒンドゥーの共同体に属していないという意味では、ぼくも物乞いの彼らも同じ立場だった。
ひとつだけ分かっていたのは、どれもがすべて現実だということだった。スイッチを切れば簡単に消えるものではなかった。
部屋の明かりを落とし、天井のファンの音を聴きながら目を閉じると、頭の中に時計の文字盤が浮かんだ。カチカチと秒針が動くたびに、過去と呼ばれる何かが心に積み上がっていった。そんな虚しいイメージをぼくにはどうすることもできなかった。
旅が終わろうとしている。あと十日もせずにこの島を離れる。もう、どこにも行かない。どこにも留まらない。さよならはこの島で言う。
誰のためではなく、自分自身のために。
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