一粒の砂 / スンガイコーロク(2)
2003/07/18
学生時代にインドネシアのバリ島で出会い、オニオンリングをあてにビールを飲んだ友人がいた。その後しばらく音信は続いていたが、些細な食い違いがあり、隔たりがあり、もう半年近くも互いに連絡を取りあぐねていた。
昨日ふと立ち寄ったネットカフェでアカウントを叩くと偶然にも彼からのメールが届いていた。タイムスタンプは前日の夜だった。
「そのうちタイに遊びにおいでよ」
彼は今およそ一年のタイ留学を修了し、バンコクでつかのまの休暇を過ごしていた。
今ぼくがタイにいるとは思ってもみないだろうと思わず頬を緩ませてこんな返事を書いた。「実は今スンガイコーロクにいるんだ。列車の空き具合にも拠るけど、近いうちにバンコクまで北上できると思う」。まさかそのうちが数日後になるなんていったい誰が予想できるだろう。
ネットカフェを離れたその足で駅へ向かった。ここスンガイコーロクはバンコクへ向かう国有鉄道の東ルートの最南端だった。
窓口に並び、少しだけ迷ってから英語で座席の空き具合を訊ねた。「バンコクに一番早く着ける列車を」と付け加えたが、午前と午後に一本ずつあるだけで、今日の列車はどちらもすでに出発したあとだった。
購入した明日の午後発のチケットには愛らしいカーブを描くタイ文字と一緒に 14:05 と発車時刻が印字されていた。到着予定は明後日の午前十時半。ざっと二十時間、およそ千三百キロの道のりだ。
シートには一等個室・二等寝台・二等客車があったが、ぼくが選んだのは最安値の二等客車だった。節約が理由で選んだわけではなかった。快適とは言い難い移動になることは目に見えていたが、それさえも今なら受け止められる気がした。
早めにチェックアウトを済ませ、昨日と同じネットカフェに立ち寄って友人に到着予定時刻をメールした。わずか数分のネット利用だったせいか、請求されたのはたったの2バーツだった。
正午過ぎのスンガイコーロクの街は厚い灰色の雲にすっぽり覆われ、水溜まりではなくまるで熱溜まりの中に沈んでいるようだった。地上にはほとんど影がないのに異様なまでの蒸し暑さが全身にまとわりついた。ただ座っているだけで汗が滲み、すぐに雫となって肌を伝った。
長時間の移動に備えて大きなボトルのミネラルウォーターと豆菓子を買い、バンコク行きの列車に乗り込んだ。シートはため息が出るほど硬くへたっていて、体育館の床で膝を抱えた方がよっぽどマシではないかと思うほどだった。
窓際に席を取り、水と豆菓子の入ったビニール袋を足元に放り投げ、しばらく長閑な車窓を眺めて過ごした。後方へ次々とめくれていく風景に飽きてしまうと今度はポケットから文庫本を取り出して読み進めた。
列車の揺れの中で活字を追うのに疲れるとふたたび視線を窓の外に移した。そんなことを交互に繰り返しながら次第に傾いてゆく太陽の光に思いを飛ばした。列車はまるで夜へ向けて疾走しているようだった。
夕方五時半に列車はハジャイの駅へ着いた。十分ほどの停車時間に弁当や惣菜を抱えた売り子たちが声を一斉に張り上げてホームを行き来した。窓から手を伸ばして発泡スチロールの容器に入った弁当とバーベキューのチキンを買った。全部で35バーツ(約112円)という安さだった。
駅弁と呼べるほど旅情を誘うものではなかったが、発泡スチロールの容器に入った弁当は蒸したライスの上に豚ひき肉とバジルの炒め物が豪勢に乗り、半熟の目玉焼きが添えられたものだった。一緒に渡されたプラスチックのレンゲでぽろぽろとこぼれるタイ米に手こずりながら口に運んだ。まだほんのりと温かみがあり、それなりに味わいのあるものだった。
こんがり焼かれたチキンにかぶりつき、ミネラルウォーターで喉を潤し、また炒め物と一緒にタイ米を頬張った。どれも初めて食べたはずの料理だったが、噛み締めたタイ米の甘みが不思議と懐かしかった。
日没間近の茜色に染まる大地を見つめながらいつのまにか小さな声で歌のフレーズを口ずさんでいた。轟音を響かせてレールの継ぎ目を越えていく車内ではきっとぼくの声など誰の耳にも届かなかっただろう。
窓枠に頬杖をつき、ため息のように繰り返し歌った。シンプリー・レッドの『セイ・ユー・ラブ・ミー』。
Being one of those grains of sand
I get blown all around the world
And what I make of it
Oh I don't know
What's the meaning of it
Oh I don't know
© 1998 Mick Hucknall
一粒の砂になってぼくは世界を飛び回る。何ができるか分からない。どんな意味かも分からない。そんな言葉で始まるこの曲をまさかバンコク行きの列車の中で思い出すとは思わなかった。
列車が夜へ向けて疾走する。
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