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生きること、逃げること / ペナン島(2)

2003/08/06

昨日、ジャカルタのアメリカ系ホテルで自爆テロがあった。毎朝ゲストハウスに届けられる英字新聞『The Star』でそのニュースを知った。

「JWマリオットホテルにて爆発」「負傷者70名以上」「国際テロ組織ジェマ・イスラミア関与か」

インドネシア入国は、よりによって今日だった。国際フェリーでマラッカ海峡を越え、スマトラ島メダンにほど近いブラワン港へ。

旅の途上で出会った何人もの旅行者が、メダンという街の治安の悪さを口にしていた。強盗、暴行、殺傷、薬物、詐欺……。

スマトラ島へ渡ることに迷いはあった。しかも行き先はメダンなのだ。圧倒的な暴力の渦に巻き込まれてしまう可能性だってゼロではない。漠然とした不安と、息苦しさを覚えるような得体の知れない恐怖が重く胸の底にあった。

出来る限りの注意は払っていく。そう言明することはたやすい。けれど、もし自分の力ではどうしようもない事態に巻き込まれてしまったら……。

新聞を折り畳み、チェックアウトを済ませてスウェッテナム埠頭へ向かった。時刻はまだ朝七時にもなっていなかった。出国手続や手荷物検査を受けるために、出航の一時間以上前に出向かなければならなかった。

停泊していた「Kenangan(思い出)」号は、本当にこれでマラッカ海峡を渡り切れるのかと訝りたくなるほど小さなものだった。どう贔屓目に見ても国際フェリーなどではない。島を周遊する観光用のスピードボート、せいぜいその程度のものだった。

こんなみすぼらしいボートに「思い出」なんて名前が付いていることにも嫌な予感がした。これは先回りされた言い訳ではないのか、と。

ピピ島へ向かった船はどうにか難を逃れたが、このボートにもし沈没するようなことがあったら、船会社はあっけらかんとこんな声明を出すかもしれない。「いつかすべて思い出になってしまうのです。それがたまたま今回だったのです」と。

どこまで疑心暗鬼になっているのかと自分でも呆れたが、それを笑い飛ばせる余裕など今のぼくにはなかった。

出航までの間、キャビンの屋根によじのぼって、琥珀色の朝陽を浴びながら深く呼吸を繰り返した。船腹を打つさざなみが聴こえ、荷を積み込む男たちの掛け声が響いた。まだ朝も早い時間だったが、すでに肌に刺さるほどの熱を含んだ陽射しが、海と空の間にあるすべてのものを均等に照らした。

不安とも緊張とも恐怖とも違う何かが胸を支配し、やがてそれはボートの揺れに合わせるように大きくなっていった。

「ミニバスには絶対に乗っちゃダメだ。夜間にひとりで出歩くなんてとんでもない。そうだ、君にひとつ忠告しておくよ。もしトラブルに巻き込まれても絶対に抵抗しちゃいけない。奴らはナイフを持っているんだ。負けは最初から見えている。最初からもう決まってるんだよ」

昨夜、宿のドミトリーで言葉を交わしたドイツ人の言葉が浮かんだ。彼はメダンから逃げるようにしてペナン島へ来ていた。当初の予定を切り上げてまでメダンを離れたというのだから、よっぽどのことがあったのだろう。煽るわけではなく、努めて冷静に伝えようとする彼の口調が、かえって事態の深刻さを物語っていた。

インドネシアの政情はいまだ不安定なままだ。果たしてバリ島まで、いや、できればその先まで、バスとフェリーだけで渡って行けるのだろうか。

いくら考えても判断などできなかった。嗅覚と、タイミングと、直感で、だからいったいぼくは何を……。

圧倒的な力に呑まれてしまった時、そこで人は限界を思い知るのだろう。人間は無力だ。いや、経験的にぼくは無力だ。ただ危うさと脆さの上に不器用に立っているに過ぎなかった。傍目から見たら、隙だらけのまま、 途方に暮れて立ち尽くしているだけかもしれないのだ。

責任という言葉の意味を思った。すべて自分の責任で、と。

スマトラ島へ向かう出航前のスピードボートで感じたのは、その言い方が持つ乱暴で投げやりなニュアンスだった。責任。そんなキレイゴト。もし何か良からぬことがぼくの身に襲いかかり、それもまた自分の責任で片付けられると言うのなら、ぼくは無責任で構わないとさえ思った。

無責任だって構わない。逃げ切れるものならどんな手を使ってでも逃げ切ってみせる。生きたい。それだけだった。

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