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悲しみよこんにちは / クラビ(1)

2003/08/01

チェックインしたゲストハウスの隣に日本人女性の経営する小さなネットカフェがあった。「Cafe Tawan」。タワンはタイ語で太陽を意味すると聞いた。実際に声に出してみると、あんなに強烈な光や熱が嘘に思えてしまうほど優しい響きだった。

予定も目的もなく、クラビという街についての情報もないぼくに、経営者の女性はいつも親切に、そして少しはにかみながら観光スポットやマーケットの立つ場所やローカルバスの乗り方などを教えてくれた。

在住五年目とのことだったが、得意気に何かを押し付けたりわけ知り顔で接することは一度もなかった。

息子の幼稚園のお迎えのついでに、そう言って彼女は「Tiger Cave Temple」というタイ仏教の聖地まで車で連れていってくれた。観光というものにまったく食指の動かないぼくを少しからかってみたかったのかもしれない。

「帰りは自力でがんばって戻ってきてね。なーんて、ちょっと私もヒドイかな?」

彼女は笑いながら言った。ヒドイも何も、むしろそんな言葉の方がぼくには嬉しかった。

頼んでもいない善意を押し付けられるのがそもそも苦手だったし、たとえ意図的ではないにせよ、勝手に恩を着せられる展開がどうしても好きになれなかった。誰かを真似て上手くやり遂げるよりも、いつだってぼくはぼく自身のまま失敗したかった。だから彼女のこんな言い方や優しさが本当にありがたかった。

きちんと礼を述べ、少し迷いながらぼくはこう彼女に告げて寺院の門をくぐった。

「ちゃんと戻ってきたらご褒美くださいね」

「んー、あめ玉でいい?」

厳粛な空気がぴんと張りつめた中で彼女の楽しげな笑い声が響いた。なんて気持ちのいい笑顔だろうと思った。

たっぷり一時間ほどかけて仏像や僧房や展示室やさまざまな謂れを持つポイントをぐるりとめぐり、数枚の景色をカメラに収めた。残念ながら心に響くものは何もなかった。

ひと通り見てしまった後でこぼれたのは深いため息だった。やっぱり熱心な観光客にはなれない。そもそも向いていないのだ。そう思ってもう一度ため息をつくと今度は笑いが込み上げた。どうしようもないな、お前は観光客にすらなれないじゃないか。

敷地内の木陰に腰を下ろし、ジーンズのポケットにねじ込んであったフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を読み耽った。読み返すのは高校生以来だった。

噎せ返るような熱帯の湿り気の中で五十年も前に書かれた小説を読んでいることに不思議な震えがあった。こんな瞬間の方が旅そのものに戸惑っているぼくの心の在り方を客観的に理解できる気がした。

小説はこんな言葉で始まっている。

ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。(フランソワーズ・サガン / 朝吹登水子=訳)

サガンの文章は美しく儚い。一瞬をつなぎとめるために、そしてもう戻ることのない今のために彼女の言葉は綴られていく。まるで思い出に変わってしまうのを拒むみたいに。

思わず心の中でこう叫んでいた。旅だ、と。

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