歴史の一幕に
『2021年の私』アドベントカレンダーに参加しています。
12/3 石川 千里 この機にnote初投稿です。
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あれは...去年の出来事だったか今年のだったのか記憶が曖昧で、この2年間が「空白の年」になるように思え、改めて振り返る機会を頂戴した。
まだ先が見えないとは言え、個人的には2年間ほどの「少しの不自由」程度なわけで、15年間戦争をしていた時代の精神状態に比べると、なんとも弱いものだとつくづく思う。
歴史の教科書に「民族(ゲルマン人の)大移動」という一文が現れて以来、2000年以上にわたり人は移動を以って、文化、宗教、疫病その他諸々の所謂「拡散」を行ってきた。
部屋の壁にかかる『ヴェネチアのマスク』はペストの名残。美しさの向こうに「悲しみの歴史」があるんだよ、鼻が長いのはお互いが近づかないため。とイタリア人が教えてくれたっけ。聞いていた周りのだんまりに「いやいや、みんな深刻にならないで」などと言っていたのは、確か一昨年前のこと。
そろそろマスク生活も2年になるが、にこちゃんマークや絵画のコピー柄はあっても、このような美を携えたマスクに発展することはなさそうで、数百年後の人々に今のマスクがデフォルメされて壁にかかることもないだろう。
リスク回避と経済打撃の狭間で、方向が定まらない先の見えなさを誰もが感じていたと思うが、ゆるゆると10年ほどかかってデジタル化が進んでいたなら、いつの間にやら職がなくなっていたかもしれず、ほぼ強制的な「デジタル化」の押し寄せは、後から振り返れば人類史上最大の変革と位置づけられそうなものを今ここにいて目の当たりにする『一幕』が設けられているようにも見える。
まるで、歴史上強いモノ賢いモノが残るのではなく変化に対応できたものだけが残る、そう突きつけるかのように。
これまで数多の「便利さ」を追い求め、経済を動かしてきた諸々の集大成が今の「デジタル化」のようにも見えるが、デジタル=便利さに恩恵を受ける層もあれば受けない層もあることを時に感じる。
出現するSNSでつながりを求め、ワイワイしている世代の片隅にいるが、「日々やりたいことがたくさんあるのよ。(与えられた)携帯電話を見る時間なんて最低限にしたいのよ」とLINEを設定している横で呟く方は来年傘寿を迎えられる。
車椅子生活になったとしても家の出入りが困らないように…所有する森を開き、庭づくりに着手した彼女は、庭に何を植えるか、四季の移ろいを考え思考錯誤を繰り返す。
まだインターネットが普及し始めた頃、「便利だけど、時間泥棒だからね」と言われたときは、それほどの脅威に感じなかったが、今や「どこに行った、何を食べた」と、これまでわざわざ公開しなかった情報のやりとりに多くの時間を割くようになったと思う。どの部分にどの便利さを取り入れるのか、便利さに支配されないためにも、押し寄せる情報とサービスに「乗り遅れてはならじ」と踏み出す前に、自分の価値観と照らし合わせる一拍がそろそろ必要なのかもしれない。
今年も、新しい出会いと別れを経験したが、途絶えてしまいそうな関係をデジタル技術が繋ぎとめてくれたこともあった。また、別れがデジタルつながりで別れにならなかったものの実質「別れ」になったこともあった。
結局は「人」だよね、とは言うが、さてその「人(自分)」をどう造っていこうか…未来は見えないために「人は『過去』で造られる」と錯覚するが、未来を創るために現在(いま)があり、遠い未来の姿を描くこと、そして1日1日のくらしの質が人生をつくるのだと、そんなことを幾度となく考える、そんな年だった。
来年は黙っていてもやってくる。
飛躍の年とは言わないまでも、頑固ではなく凛として強くしなやかに2022年も一つ重ねたいと静かに誓う。