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フェアトレードと情報公開

利潤をもとめた果てない人類の競争。その結果、環境破壊も起きてくるし、そして、戦争も続けられるのです。では、この利潤、というのはどこから生まれてくるのでしょうか。

貨幣は投資されることによって資本と変わります。そのことによって剰余を得るわけです。投資先としては、根本的には2種類ある、と考えてよいでしょう。柄谷行人氏によれば、それは、空間的な差と時間的な差です。

最初に空間的な差、とは、同じ商品が違う地域において違う値段を持つ、ということです。価値観の地域的な違い、商品の手の入りやすさ、入りにくさ、気候、などなどによって値段が違ってきます。その違いを商人は利用して稼ぐことができます。つまり、安い地域で買って高い地域で売ればいいのです。その反対の動きは常識的に考えられません。ある商品の流れは一方的になります。

トランスコミックより

しかし、稼いでいる、といっても、これはすべて「公平」な価格で行われているのに注意して下さい。サギではありません。ある商品の価値はどこでも一定のものではなく、つまり、商品自体に隠されているのではなくて、他の商品との関係として出てきます。つまり、あるものが具体的にどのくらい価値があるか、というのは、他の商品との比較でしか現れないのです。ならば、普遍的にどこでも通用する価値はなく、それぞれの地域で、比較的に決まるだけです。だから、空間的に違うところで、違う値段が出てくるわけです。

もし商人が同じ価値体系の空間内で商売を行っても、剰余は出てきません。もちろん、ある種の商人は、いくらで買ったかを隠して、利潤を得ることができます。それは言ってみればサギですが、その社会全体でいえば、同じ額を他の人が損していることになるので、それは平均台のように、プラスマイナスゼロとなります。つまりゼロサムです。社会全体としての剰余は、だから違う価格体系の中を商品が移動しない限り、生じません。

第二に、時間的な差への投資、とは何でしょうか。それは産業資本といわれているものが、主に注目する差です。それも違う価格体系を利用するものです。(もちろん、産業資本も空間的な差からも剰余を得ようとします。例えば、現在のグローバル企業というのは安い賃金や安い原材料をさがしもとめ、それを利用して安上がりに製品を作ろうとします。)

前にも言ったように、価格体系というのは、すべての商品の間の関係、としてしか現れません。それならば、その価格体系に新たなタイプの商品が入ったらどうなるのでしょうか。そこにちょっとした切れ目が生まれます。しばらくの間、まるで違う価格体系二つが存在しているかのようになります。

たとえば、新たな生産方法によって同じものを作ったらどうなるでしょうか。それは将来の方法を他の企業よりも前に先取りするというようなことです。生産性が上がれば、それは安い価格体系を手にした、と言ってよいでしょう。しかし、消費者の市場では、その製品はまるで前の方法と同じ様に作られた商品であるかのように、扱われます。ならば、まるで安い地域で買って、高いところで売ったのと同じ様になるでしょう。

トランスコミックより

また、組織を編成し直しても生産性を上げることができます。例えば大量生産をすれば、一商品ごとの生産費は一般的に安くなります。また、それこそ新たな製品を作り出す事もできます。テレビとか、携帯電話とか、新たな商品ができると、その商品が当てはまる価格体系はまだ社会にできていませんから、その分高い値段で売ってみることができます。

この様に産業資本は将来の技術を情報を、競争者より先取りして独り占めしようとするのです。だから、彼等はどんどん新しい技術開発をし続け、新たな情報を把握しようと忙しいのです。もしそれを止めると、競争によって常に価格体系の中で商品の価値が下がっていくのにしたがって、利潤幅も下がってしまいます。だから、ある技術が環境を破壊する危険があろうが、遺伝子を破壊する可能性があろうが、どんどん技術開発をしていこうという「情熱」が生まれるわけです。

また、単に技術開発をするだけでは駄目です。その技術によって得た価格のアドバンテージをしばらく保持せねばなりません。だから、技術や情報を同じ企業の中にしばらく置いておこうという情熱も生まれます。それが特許とか、社員の機密保持の義務、とかになります。

もし、技術情報がいつもおおっぴらにされ、パブリックに使えるようになっていたら、産業資本は利潤を追求する必要はなくなります。だから、たとえば近代科学では、新しい情報を独占して稼ごうとするのではなく、成果を発表してそれを社会全体の公益のために使おうとしますから、そこから剰余は生まれません。あるのは公益です。しかし、もし誰かが科学の成果を特許化し、その独占を主張すれば、それは剰余を生む可能性があるでしょう。根本的にだから科学と資本主義は情報のオープンさに関して対極にあるといっていいでしょう。情報を独占しようとする科学者はもう科学者の名に値しないし、逆に情報公開を積極的に進める資本家は自分の利潤より公益に奉仕しようとしているといっていいでしょう。

貨幣による交換は決してまったく対等の間でなされるわけではありません。一方で、買い手にはお金を持っている、という有利さがあります。色んな商品の中から好きなものを選ぶことができます。逆に、売り手は、ある特定の商品が売れなければお手上げなので、弱い立場にあります。しかし、その特定の商品に関しては、自分で提供するのだから当たり前ですが、買い手よりずっと多くの情報を知っています。買い手と売り手の間のこの情報量の差、これが剰余、利潤のもとです。それは、技術的な情報だけでなく、最初にあげたもともとどうやって安く買い入れたか、という情報を含めてです。そのような情報の公開はだから、剰余の飽くなき追求に対してストップをかけるための重要な要素になります。

そして、違う値段体系、交換関係を作り出すということは、別の言葉で言えば、内部と外部を作り出す、ということといえます。

つまり、

1.内部(たとえば国内)と外部(第三世界)との価格・賃金体系の差(つまりレートの差)。
2.それから、ある技術革新の情報を自由に使える内部(企業)と使えない外部(他の企業)との差。

を作り出すことです。

この差異は、組織の内部と外部における情報保持の差、あるいは、ある通貨と他の通貨のレートの差、を発展的に解消できれば生じない。

前者は情報公開(科学、LINUXなどの運動)であり、後者はフェアートレードです。なぜ、図書館のように知識を、そして発展の機会を多くの人に開かないのでしょうか。

(tcxpressアーカイブより。2005年ごろ執筆)

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