わたモテクリスマス特別編: なぜゆりの言葉は届かないのか?

電車が出発するので。
とはいえ、わたモテは現実ではない(ルイズコピペ)。
ここの描写は何かあるような気がする。
それから、読んでいて「まあそうなるだろうな」と不思議と納得させられるのはなぜだろう。
今日はそのあたりをひもといていきたい。

さてこのくだり、過去の色々とオーバーラップするように描かれてるのは見てとりやすいと思う。
もちろん、千葉西見学回のラストがそうだ。
それから、もう少し読み込むなら2人が出会った時期との対比になってる。
修学旅行前の、目は合わせないが言葉は届く(「別になんでもいいよ……」)ゆりと、今話の目は合ってるが言葉が届かないゆり……のように。

とはいえ、なによりの狙いは今話の前半との対比だと思う。
いつもそうといえばそうだが、前半の智子とゆり、変じゃないだろうか?
ゆりがコンドームを知らないことといい智子の生でどうたらのくだりといい、これほどあやしげな描写もなかなかお目にかかれないだろう。
ところで、ここでモチーフになっている「コンドーム」だが、これは言うまでもなくモノを遮断する透明の膜だ。

……何かに似てないだろうか?
そう、言葉を遮断する電車の透明な窓ガラスだ。
——ということで、今話の2人はコンドームと窓ガラスを巡るお話として読める。(あまりピンとこない人は、絶望先生の「寺山修司っすね」って感じのOPで脳内再生するといいと思う)

この類似にもう少しこだわろう。
よく、「○○は男根のメタファー」というスラング(?)がある。
これはなんでも男根のメタファーになっちゃうだろというギャグなのだが、それはともかく、最大の男根のメタファーは言葉だ。
今話の文脈に置き換えよう。
コンドームが無く精子が伝われば子供を孕んでしまうのだが、同じように、窓ガラスが無く言葉が伝われば……思いを孕んでしまうというわけだ。
(ここで智子とゆりの主客が転倒してる点にも注目してほしい)

ところで、ゴムつきのセックスはとどのつまり「不毛な」ものと言えるだろう(愛のあるセックスはゴムありでも充実感が違うんだみたいな陽キャっぽい話はここでは置いておく)。
他方、智子とゆりの会話もまた「不毛さ」が強調されることが多い。
だから——これはレトリカルな言い方だが——智子がああ言おうが生はダメだし、ゆりの言葉が伝わってはダメということなのだ。

ところで、喪183から『少女終末旅行』のモチーフを見てとるのはたやすいが、上に書いたような理由で、今話もまた別のかたちで『少女終末旅行』っぽいなと感じた。
どうもこの2人は、SF的な道具立て抜きでも不毛な生=ポストアポカリプス的生を生きられるようだ。

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