バイト先のお向かいのおばあちゃんがくれたもの~バレンタインデーの思い出
今回は高卒就職問題とはあんまり関係がありません。
私の忘れられないバレンタインデーの思い出の話です。
平成になってすぐの頃。私は一浪して東京の私大に入り、親戚のツテで板橋区東山町のある建材屋さんでアルバイトをしていました。
その建材屋さんは左官屋さんが壁や土間に使う材料を売る店でした。福島訛りがあってどことなく志村けんに似た雰囲気の社長と、あとで後妻さんであることが判明するおかみさん、上州訛りがきつくてサボり癖のあるトラック運転手のイチカワさんの三人だけで切り盛りしていました。
あったかい笑い声が絶えない店でした。
時代はバブル景気まっただ中、都内は建築ラッシュでセメント袋と砂が毎日飛ぶように売れていました。私の仕事は、セメントに混ぜる砂を18キロ分土嚢袋に詰め、専用の置き場に積み上げるというもの。
1日2回、大きなダンプカーがやってきて置き場にザーと砂を置いて行きます。その砂山の前に底を抜いて筒にしたエンジンオイルの空き缶を20個並べ、空の土嚢袋を開いて差し込みます。砂山に角スコップを突き刺し砂をすくい上げ、袋に流し込みます。4回繰り返してちょうど18キロ。20個入れ終えたら筒を抜き、袋の口を縛ります。保管・運搬中ほどけず、それでいて作業時にほどきやすいような縛り方で、一個あたり2秒以内に縛る。縛り終えたら10メートルほど奥の砂袋置き場まで運び、6×6、1段36個になるように並べて積み上げます。5段積んだら転倒防止のためにコンパネ板を敷き、さらに積み上げ、2m20cmの髙さで満杯。300個ぐらいになります。
バイト料は砂袋1個あたり60円でした。100個で6000円、200個頑張れば1万2000円もらえる計算です。貧乏学生には非常にありがたいお金でした。ただし、200個で総重量3.6トン、これを袋詰めして2m以上の高さに積み上げるのですからメチャメチャきつい。しかも途中、配達係のイチカワさんが戻ってくるたびに作業を中段して、トラックにセメント袋(当時は1袋40キロ!100とか200)や砂袋を積む手伝いもしないといけない。
入りたての頃は100個作るのが精一杯でしたが、週2回を半年続けると、長距離ランナー然としていた体つき(中学高校と陸上長距離をやってました)がエバンゲリオン初号機のような感じに変わり、1時間で100、休憩も含めて4時間あれば300(1万8千円!)作れるようになりました。このアルバイトを大学を卒業するまで4年間続けました。夏はきつかったですね。
さて、バレンタインデーの思い出の話です。何年目の冬だったか思い出せないのですが、たぶん1年目か2年目だったと思います。
私は仕事終わりに店の前一帯、道路も含めて散らばった砂を竹箒で履いてきれいにするようにしていました。
少し寒いバレンタインデーの日、いつものように掃き掃除をしていた私を呼ぶ声がします。
「ちょっと、ちょっとお兄さん。」
その建材屋さんの向かいの家のおばあちゃんです。
「いつもきれいにしてくれてありがとうね。」
そう言って私にチョコレートらしき箱をくれたのです。その時のおばあちゃんのはにかんだ表情と頬紅の赤さが目に焼き付いています。
その頃の私は、陸上競技を辞めて目指すものをなくし、大学に入ったはいいけれど自分が何に向かうべきかも知らず、何者にもなれていない自分の現状を自覚し、ヤケ気味になっていました。
涙が出るほど嬉しかったんですよ。陸上をやっている間は、スゴイとかエラいとか言ってもらうことはありましたが、あんな風に感謝されたことはなかったんです。
陸上長距離ランナーだった私は、もっと速く走れるようになりたい、ただそれだけを求めていろんなものを犠牲にしていました。勉強どころか友達つきあいさえ面倒くさく、ただ毎日走ってばかり。それがカッコいいと思い込んでいました。そして、陸上を辞めてしばらく経ったとき、自分がいつの間にか何の価値もない空っぽな人間であることに気づきました。浪人して大学に受かり、しばらく経ったあたりは、自分のダメさ加減に打ちひしがれていた時でした。
そんな、進む方向を探していた頃の私に、道を照らしてくれたのがあのおばあちゃんでした。何か人の世のために生きる人になろう、と決めたのはその後のことです。おかげで50歳過ぎた今も、私はその方向に向かって生きていられています。
もう30年以上前の話です。
そういえばお返ししてませんでした。
ゴメン、お向かいのかわいいおばあちゃん。
ほんとに感謝してます。