猫にかつおぶしを与えてはいけない
子どもの頃、父が拾ってきた野良の子猫を飼うことになった。サバトラ(シルバーに黒の縞模様)のメスで、1年足らずで活発で敏捷な成猫になった。
木造家屋のガラス戸の桟に器用に爪を掛け、スルスルと垂直に登る。登り終えると今度は棚の上にピョーンと飛び移る。まるで忍者だ。障子にズボッと穴を開け、そこから出入りする。やがて縁側の引き戸のすき間に爪をねじ込んでガラガラと開け、屋外に逃亡するようになった。
庭の梅の木に登り、そこから屋根に飛び移ったときには肝をつぶしたが、それもじきに日常の風景となり、猫の行動範囲はどんどん広がっていった。それでもごはんどきになるとちゃんと帰ってきて、「めしはまだか」と催促する。
当時は東京にもまだ原っぱや空き地が残っていて、野良猫だけでなく飼い猫も、サザエさんちのタマのように外を自由に歩き回っていた。春と秋には発情期の猫たちの遠吠えのような鳴き声が、寝静まった住宅街に響いた。
わが家のおてんば娘のお腹もみるみるうちに大きくなり、やがて4匹の子猫を産んだ。知り合いのつてをたどって貰い手を探したが、一時期は14匹の猫と同居したこともあった。
母は週に一度、近所の魚屋から大量の魚のアラ(と少量の人間用の魚)を届けてもらい、家で一番大きな鍋で煮ていた。煮上がると骨や硬い部分を取り除いて冷蔵庫で保存し、小分けにして猫たちに与えていた。
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12年前、子どもたちのたっての願いで数十年ぶりに子猫を飼うことになった。スコティッシュフォールドという猫種(びょうしゅ)で、遺伝的に耳が小さく垂れ気味で、顔が丸く見える。養老孟司先生の愛猫「まる」――TV番組やSNS(https://www.instagram.com/marustagram_yoro/)で人気者となり、その訃報(2020年12月)は全国ニュースにもなった――をはじめ、この種の猫には「むぎ」「もも」「まるお」「もふこ」「もちまる」など「ま」行の名前が多い。その丸さから、ドラえもんのモデルだという説もある。
丸みを帯びた外見にふさわしく、性格も穏やかでおとなしい。しなやかだが敏捷ではなく、少々どんくさい。独立心旺盛というよりは甘えん坊だ。
やはり「ま」行のやわらかな響きが似合うと、「メグ」と名付けた。ルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』に登場する四人姉妹の長女の名前。おっとりしていて優しいところも、物語の長女を思わせた。
猫も自分の名前がわかっていて、「メグ」と呼ぶと現れるか、「聞こえているわよ」と言わんばかりに片方の耳だけこちらに向ける(猫の耳の筋肉は人間よりも発達していて、左右の耳を別々に動かせる)。時には「ネギ」と呼んでも振り向く。
ひさしぶりに飼ってみると、猫を取り巻く環境はずいぶん変わっていた。
動物病院では、生後1年以内に避妊手術を受けるよう勧められ、8カ月で受けた。繁殖させる気がないならば、成猫になる前に手術をしたほうが体への負担も少なく、長生きできるという。猫の感染症も以前よりも増えていて(猫白血病や猫エイズ、猫コロナウイルスまである)、室内飼いがデフォルトだ。
猫自身も、マンションの外廊下までが自分のテリトリーだと思っていて、一度、ハーネス(胴ベルト)とリード(散歩ひも)を着けて中庭に出したら、パニック状態に陥った。やみくもに走り回るので、「道路に飛び出したりしたら大変だ」と屋外を散歩させるのは断念した。
それでも「おさんぽ」と声をかけると大喜びで玄関までダッシュするし、日に何度も玄関に座り込んで「おさんぽつれてって」と催促する。外廊下に出ると、階段を使って他の階に遠征することもあるが、知らない住人と出くわすと、一目散にその階の2号室まで逃げていく(わが家は●●2号室)。階が違っても各フロアの構造はほぼ同じなので、2号室まで行けば安全だと思っているらしい。
食事は猫用の缶詰と固形のキャットフード、おやつはフリーズドライの鶏のささみやチューブに入った液状フード、と手間いらず。10歳を過ぎると獣医師の勧めで、高齢の猫がかかりやすい腎臓病を予防するプレ療法食に切り替えた。
12歳(人間の年齢に換算すると64歳ぐらい)になった今年1月、ぱたりとごはんを食べなくなった。翌日病院で診てもらうと、あれだけ気をつけていたのに、ステージ4の腎不全だという。うまく機能しない腎臓から老廃物を排出しやすくするために、1週間入院して毎日24時間点滴を受けた(人間の「人工透析」にあたる)。その結果、ステージ3まで回復し、退院。ごはんも食べられるようになり、遊びも散歩も再開した。
退院後も、2週間ごとに血液検査を受けて、数値を見ながら点滴に通っている。一時は数値がほぼ正常に近づき、週2回の通院になったが、再び悪化して毎日通うことになった。病気で5.5kgから4.1kgに減ったとはいえ、猫をリュック型のキャリーバッグに入れて前掛けにし、連日通院していると、膝や腰が痛くなる。妊婦時代を思い出すが、現実は老老介護だ。
「食事も完全な療法食に」と言われ、各メーカーのサンプルを試したが、ほとんど食べない。「腎臓食が無理なら高齢猫食でも……」と言われ、猫の好きな固形おやつとほぼ同サイズ・同型の腎臓食と高齢猫食を少しずつ混ぜると、最初のうちは食べたが、そのうち匂いでわかるのか残すようになった。好物のささみや缶詰をまぶしたり、食べやすいごはん皿に替えたり、知恵比べが続いている。
私自身もそうだが、年を取るとあちこちに不具合が出てきてつい愚痴っぽくなる。誰に対しても穏やかだったわが家の猫も、このところ自己主張が激しくなってきた。通院準備をしていると家具の裏に隠れる。キャリーバッグに入れると暴れ、病院に到着するとバッグの中からうなり声を上げる。診察室では獣医師に向かってシャーシャー威嚇する。
家にいても、遊んでほしかったり、散歩に行きたくなると、誰かが相手をしてくれるまで「ウルル~ウンニャンッ」と哀れな声で訴え続ける。「年寄りのワガママ」という言葉が浮かぶ。
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現在、高齢猫の死因第1位は、腎臓病(腎不全)。原因は諸説あるが、その昔、アフリカの砂漠で暮らしていたリビアヤマネコ(英名African Wildcat)を起源とする現代の猫(イエネコ)たちは、水分の少ない砂漠でも生きていけるように、尿を濃縮して水分の排出を抑える構造になっている。だから、長生きするほど腎臓に負担がかかる、という説が有力だ。
腎臓に負担をかけないようにするには、タンパク質、ミネラルの摂取を制限する必要がある。海に囲まれ、江戸時代まで肉食の習慣がなかった日本では、猫も人間同様、海産物を食べてきた(欧米の猫は魚よりも肉を好むという)。海産物にはミネラルが豊富なものが多い。過剰に摂取すれば尿のpHバランスが崩れ、腎臓に負担がかかる。
その最たるものが「かつおぶし」や「にぼし」で、タンパク質やビタミン、DHAやEPAなどの他に、カルシウムやマグネシウム、カリウムといったミネラルが含まれている。
尿中のカルシウムやマグネシウムが増えると、尿路結石になる。カリウムが増えて高カリウム血症になると、腎機能が低下して腎不全になる。塩分にも注意が必要で、過剰摂取するとナトリウムが増加して血圧が上昇し、心臓や腎臓に負担がかかる。
「猫にかつおぶし」とはよく言ったもので、わが家の猫もかつおぶしの匂いがすると、途端にそわそわし始める。スーパーのペットフード売場に行くと、犬猫用の減塩かつおぶしが普通に売られているので、子猫の頃からおやつとして食べさせてきた。
かつおぶしに関しては、獣医師によって「食べさせてよい」「少しならよい」「なるべく食べさせないほうがよい」と意見が分かれることを、この12年間、猫に親身な獣医師を求めて数軒の動物病院に通った結果、初めて知った。しかし、腎臓病を発症すれば一律に禁止となる。かつおぶしがそんなに危険な食べ物だったとは……「早く言ってよぉ」である。
一般社団法人ペットフード協会の「令和4年(2022年)全国犬猫飼育実態調査」によると、猫の平均寿命は15.62歳(「外に出ない猫」は16.02歳、「外に出る猫」は14.24歳)だそうだ(野良猫に関する統計はないが、一般に3~5歳とされている)。
https://petfood.or.jp/data/chart2022/3.pdf
江戸後期の旗本で、奉行職を歴任した根岸鎮衛(ねぎしやすもり 1737-1815)が、30数年かけて集めた10巻1000話に及ぶ珍談・奇談・怪談集『耳袋』には、人間の言葉を話す猫の話が出てくる(巻の四 猫物をいう事)。それによれば、「十歳を過ぎればどの猫でも人語を話せるようになり、十四、五歳にもなれば神変(=人知では計り知ることのできない不可思議な変化)を得るようになるが、そこまで長生きする猫はいない」。それほど当時、10年以上生きる猫は稀だった。
医療の発達で人間も動物も長寿になり、「健康寿命を延ばす」ための知識も日々更新されている。周囲に迷惑をかけたくないから健康でいたいが、根っからの食いしん坊の私は、好きなものを我慢してまで長生きしたいとは思わない。次の食事が最後の晩餐になってもいいから、おいしいものを食べたい。
わが家の猫も、人間の言葉が話せたらそう言うかもしれない。
青山 薫