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作家の目線と読者の目線

今年、両親は小説書きに挑むことになりました。特に母親は熱心に執筆をしてもう小説を2つ書き終わりました! 私と父親は昨年と一昨年に6週間の創造的作文クラスを受けましたが、お互いの小説は未完成のまま……。母親の猛烈なペースに少し怯えている気分です。

私としては、作品を出版するほど大きなゴールはなく、執筆は精神を落ち着かせる趣味として楽しんでいます。昔は「完成できるかな、品質はいいかな」という不安に満ちておりましたが、最近は「自分のために書き、完成度や品質は後にする」気持ちになれました。

もちろん無意識に書いてる訳ではなく、執筆を技能として磨いてます(もし同じく執筆の腕の向上に興味を持つ方がいらっしゃいましたら、アーシュラ K・ル=グウィン様の素晴らしい『文体の舵をとれ』をお勧めします)。そして腕を磨いている内、少し面白い矛盾に気づきました。

特に西洋文学の考えでは「争いは物語の中心」と思われます。争いがなければ、物語は動かないまま。しかし争い自体はそれほど面白くありません。本を読み始め、最初の段落から最後の一文までずっとテンションの高い戦いだったら、読者は恐らく10ページほどで疲れてしまうでしょう。争いの矛盾は、「中心ではあっても、本文自体が争いに集中しすぎると物語が結果的に悪くなる」ことだと思います。

レイモンド・チャンドラーには良く知られている名言があります。
「If your plot is flagging, have a man come in with a gun. When stumped, have a man come through a door with a gun. (もし物語の流れがだれてるなら、銃を構えている男を登場させろ。アイデアが全然来なかったら、銃を構えている男を登場させろ。)」

笑いをさそう名言ですが、安雑誌から章ごと執筆料を受ける形式の仕事だったので、恐らくそういった考えは経済的に重要だったのでしょう。そして比較的に知られていない上、その名言と異なるチャンドラーの感想がありました。友達への手紙で書かれた文で長いため、少しまとめました(手紙は『レイモンド・チャンドラー語る』で見つけられます)。

チャンドラーが安雑誌の短編小説を書いていた頃、主人公が車から出て建物へ歩く文学的に美しい描写を書きました。ところが、その文は安雑誌により消されました。編集部は「読者はアクションが欲しい。こういうのはそれを邪魔するだけだ」という意見を彼に伝えました。

しかしチャンドラーは大反対。「読者は争いにあまり興味を持たない」と彼は手紙に書いています。「誰かが撃たれた出来事に感心はなく、読者の記憶に残ったのはあの人が紙ばさみを掴み上げようとしたこと。何度も掴もうとして何度も指から滑り、顔が歪み、死が訪れていることすら考えていなかった。指から滑る紙ばさみを、机の端に押して、落ちる瞬間に掴めばよかったのに」

チャンドラーの散文と手紙に書いた思いは素晴らしく、この記事では良さを伝えきれません。今でもその紙ばさみの例を考えます。時に小説書きをすると、「こんなつまらない始まりを飛び超えて、早く良い部分に飛びたい!」気持ちが溢れます。しかしその時こそチャンドラーの思想を覚え、自分を落ち着かせます。

自分は良い部分だと思うが、読者にはそう思われるか? 銃を構えている男よりも紙ばさみ。ちょっと異様な助言かも知れませんが、ピンとこない原稿を読み通しているとき、どういう問題か簡単に気づきました。

と小説に関する記事を書きましたが、完成はまだまだ。もしかしたらチャンドラーよりも母親に助言を受けるべきかもしれません。

季節は再び交代し、秋の声が聞こえ始めました。蒸し暑い夏の終わりは嬉しく思いますが寒い冬は後もうちょっと。皆様もご安全に。

マーティン

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