「何者でもない」宛の余白 / 星野源 " Hello Song "
情熱大陸を見るのが、あまり好きじゃない。
でもセブンルールは大好きだ。
カンブリア宮殿を見るのは、腰が重い。
だけど、がっちりマンデーは早起きしてでも見たい。
肩が凝るのだ。なぜかって「自分ごと」と感じられないからだ。
アスリート、経営者、ファッションモデル、美術家、医師...
プロフェッショナルの信念とストイックさには、素直に畏敬の念を抱く。
けれど、自分が到底、同じ円の中に属しているとは思えない。
遠い世界と自分とのギャップを、まざまざと見せつけられるのは
恥を捨てて言葉にすると、しんどいのだ。
「自分が何者なのか」
青臭い話ではないけれど、何者でもないなと自任している。
きっとこれからもそうだ。
名もなき大衆として日々の生活に邁進して行く。
それで良いとも思っている。
目の前の世界に誠実に向き合って行くことに一生懸命でいることも、
自分には容易ではないはずだし、それが恥ずかしいわけではない。
音楽も映画も、受け手はいかに「自分ごと」に変換するか。
勝手に自分のことだと置き換えて、気持ちを高ぶらせ、思案を巡らす。
『どこの誰か知らないが 出会う前の君に捧ぐ』
『この世未来切り開く 何でもない君に』
何となく遠ざかっていた、星野源を久しぶりに聞いた時に
このフレーズに、一瞬で心を持って行かれた。
自分のことを歌ってる!すぐにそう捉えた。本当に勝手だ。
大衆のほとんどが、
自分は立派に何かを成し遂げて、
メディアで取り上げられ、賞賛される人間にはなり得ないと
思っているんじゃないだろうか。
それを望んでいなくとも、なんだか「何者でもない」ことに気後れする。
なんなんだろうこの蔓延した空気は。
承認欲求と言うことばが、好きではない。
やかましいのだ。基本は放っておいて欲しいと思っている。
だけど"Hello Song"を聞いて、
承認や賞賛はいらないけれど「肯定」はして欲しかったんだなと、
はたと気づいた。
『うずくまる事ばかりだけど 少しでも多く 僕らは今を作ろう』
『いつかあの日を いつかあの日を 超える未来』
『Hello Hello 笑顔で会いましょう』
球場コンサートのこの曲中で星野源が
「クソみたいな毎日だけど、また笑顔で会いましょうー!」と叫び
多くの友人が涙したと聞いた。
星野源は、いまや大衆がリスナーだ。
けれども、9年前に、くせのうたでも言っていたじゃないか。
『僕は時代のものじゃなくて あなたのものになりたいんだ』
ズルいぞ、星野源。
嬉しいのに、悔しいって言いたくなるぞ、星野源。