Member Story [タカラジェンヌからベンチャービジネスの世界へ 。宝塚音楽学校入学篇」
(このNOTEはTPOメンバーの星みずほ、元タカラジェンヌが
書いています。)
夢を叶えるために必要なこと。
その夢への情熱と本気、これに尽きるのだと思う。
いろんな失敗をして、たくさん頭を打って
たまに味わう嬉しいことに喜んで、また失敗して、
年齢をそれなりに重ねて、一周回ったかなという今、
改めてやっぱり原点はそこだと思う。
何もなくても、情熱と本気(本当の本当の本当の、本気)は
周りの人や、運命の波動みたいなものをも巻き込んで
動かす力になる。
宝塚音楽学校受験から合格まで、何も持っていない、何もわかっていない
高校生当時、情熱と本気だけで
がむしゃらに切り拓いた日々を思い出しながら、ふと思う。
どこか似ている・・。
「公私融合」を掲げ日本初のコーポレートコンシェルジュ事業を
世の中に広めようと、夢に向かって走り続けるベンチャーで
格闘している、いまの私。
タカラヅカに入る!と誓って死に物狂いだった、あの時と。
今、大きな夢に向かおうとしているあなたへ、
何をどう始めたらいいのか途方に暮れているあなたへ、
何もなくても、燃える心で、人生や運命を切り拓けるのだと
その背中をちょこっと押してみたい。
突然、運命のようにタカラヅカを知る
私は宝塚とは程遠い公立高校に通っていたので、
宝塚自体、じつは高校生になるまで知らなかった。
ある日NHKの「劇場への招待」という番組を見て、突然雷に打たれたように
「こっち側から見るのではなく、あっち側に行きたい」
という気持ちに衝き動かされ、音楽学校受験を決意。
この時に見た番組では、宝塚の舞台作品を放映しており、
私はショーの中のQueenのWe Are The Championsの楽曲を使った場面で、
倒れそうになるほど感動してしまった。
(その何十年後にQueenが映画になって、また同じ曲に涙するとは・・・!)
普通、宝塚を見たら男役のかっこよさに酔いしれそうなものなのに、
この時私が惚れ込んでしまったのは、娘役トップスターさん。
可憐で素晴らしいダンサー、あまりのかっこよさに、
VHS(時代が・・・)のテープが伸びてしまうほど何度も見ながら、
密かに「ここに入るには何をしたら良いのか」をリサーチし始めた。
スクール探し、単身営業
宝塚歌劇団に入るには、宝塚音楽学校に入学することが必須。
「宝塚音楽学校」の受験資格は中学卒業から高校卒業の年齢の人のみ。
ということがわかった。
その時点、私はもう高校1年生の冬休み。
受験できる年齢に入ってしまっている・・!
しかも中卒時の一回を既に逃している。
私は焦った。時間がない。
今と違ってPCやスマホなどない時代。
ありとあらゆる本屋さんの「各種学校」「音楽大学・音楽専門学校」や、
タウンページ(時代が・・・)で「音楽教室」「ダンス教室」を探して、
「宝塚受験」に少しでも関連がありそうなところに片っ端から電話をかける。
私:「宝塚受験のための教室を探しています」
電話向こう側:「それではまず親御さんと一緒にきてください。
面接をして、教室に入っていただけるかどうかを判断しますので」
・・・
(両親は働いているし、一緒に行く時間はない。この教室は無理だ)
今思えば、電話の向こう側では
「なんで本人が突然電話してくるのかしら?、珍しい・・」
「親御さんは知ってるのかしら?
お嬢さんが情熱だけで電話をしてきたのか?」等々、
思われていたに違いない。
明らかに困惑されている感じが伝わってくるが、気にせずどんどん電話。
40件くらいかけて、ほぼ全滅。
まるで新人営業のようである。
そんな中、一件、こんな高校生からの突然の電話に
応じてくれた教室があった。
「うちは父が宝塚のオーケストラでヴァイオリンを弾いていました。
昔は受験教室をやっていたのだけど、父が他界してからはやっていないんです。ただ、あなたの話を聞いて、とても情熱があるのを感じました。
うちは音楽教室もやっているので、一度来てみますか?」
藁にもすがる、とはこういうこと。
もう何でもよかった。
学校が終わったその足で、蒲田の音楽教室へ向かった。
情熱が運を引き寄せる
園長先生と奥様が迎えてくださって、
音楽教室併設の幼稚園の教室に通された。
少し話したあと、アップライトピアノを弾きながら拙い歌を歌う。
「僕の知っている先生に紹介するので、そこで歌を
聞いてもらってみてください。」
国内で活躍中の作曲家の先生を紹介され、お会いすることができた。
結局直接、宝塚受験に関する何かには繋がらなかったが、
大きな自信になった。
やきもきしながら、高校が終わった後クリーニング屋で受付のバイトをし、
そのバイト代で地元の小さなバレエ教室に細々と通った。
私がこんなことをしている間にも、
他の受験生は朝から晩までレッスンをしているはず。
悔しくて悔しくて、夜も眠れなかった。
西に東に、少しでも「宝塚音楽学校受験」に関することがあれば、
どんなところにも一人で向かった。
その作曲家の先生に会ってもらった、という実績は
他の教室への連絡時、一言添えるだけで、これまでになかったくらい、
格段にきちんと話を聞いてもらえるようになった。
やっとたどり着いた受験スクールの先生は、それまでの受験スクールとは違った。
夢は自分の実力で切り拓く
「自分がやりたいのだから自分で門を叩く、それは当たり前のことです」
「何でもかんでも無闇に習えばいいのではない、一回を大切に
一生懸命取り組む」
経済的に決して恵まれていない私でも通える、良心的な教室だった。
合格するには、この教室で一番になるくらいの気持ちでやらなければ。
この先生に何があってもついていこう、と決意した高校三年生の春だった。
ここで約一年間、死に物狂いで食らいついた。
情熱はあるのに、そのぶつけどころがなかったそれまでの悔しさを晴らすように、明けても暮れても、レッスンレッスン。
一次試験、二次試験と進み、最終試験の前夜。
私は母と、宝塚の地にある小さな和食店にいた。
私「お母さん、ここまで来させてくれてありがとう。
ここまで来れて悔い無いよ」
母「まだ明日の最終試験があるじゃない」
私「もうこれ以上頑張れないっていうほど頑張ったから。
これで落とすような学校ならもう入れなくていい、
こっちから願い下げだよ。
私、もうこれ以上頑張れないくらいやったから」
不思議と心は落ち着いていた。
緊張とは、自分の実力以上のことをやってやろう、見せてやろう、
と気負うからするのであって、
「これが私です、これ以上でも以下でもない。
これ以上頑張れません。私の人生を懸けて精一杯やらせていただきました」
という、しんとした静かな気持ちだった。
合格発表。
当時は受験番号と共に名前も貼り出されていたため、
自分の名前を発見し、拳を握りしめながら、
静かにこれまでの日々を噛み締めた。
「ここからだ。ここでやっと扉の前に立てた。
ここから厳しい道のりが始まる」
渋い18歳の春だった。