思想の「コモディティ化」と充足感

「コモディティ化?なんじゃそりゃ。」

カタカナ語があまり好きではない私。厳密に言えば、母語である日本語で表現できることをわざわざ他言語で抽象化してしまうのが好きではない私。さらに厳密に言えば、そのカタカナ語を使うことによって自分が高次元な話題の中にあると錯覚し、要はドヤ顔をできてしまうのが好きではない私。

この言葉を見かけたのは「SNS時代における『表現のコモディティ化』」という写真家・研究者である別所隆弘さんの記事だった。ほう、なるほど。確かに表現はコモディティ化しているかもしれない、記事を読む前に思った。記事を読んだ。高次元な話をされていた。理解が追い付かない馬鹿な私は「コモディティ化」と言う言葉の唯一の獲物を片手にその記事を去り、今ここで指を走らせている。さて、この言葉をどうやって調理しよう。コモディティという言葉は英語 'commodity' のカタカナ語で、高校の頃にお世話になった英単語帳によると、日用品という意味だった気がする。とすれば、「コモディティ化」は「日用品化」と解釈して良いのだろうか。つまりは、〇〇することが当たり前になる、と解釈して良いのだろうか。アブストラクト化した話題にプロブレマタイズされた私は、今日もコンセプションをスティミュレートする。

おふざけはここまでにして、本題に移ろうと思う。
SNS時代・コモディティ化という2つの言葉をみた時に、多くのことが頭の中を駆け巡ったが、その中でも「思想」が一際輝きを放っていた。要は、「思想がありふれている」ということだ。それは思想の衝突の多さを表すだけではなく、我々は好戦的性向が強くなっていることを意味する。少し噛み砕かせていただきたい。と書きかけた私は、うまく噛み砕けなかったので言論を続けることにする。好戦的性向というと難しく聞こえるかもしれない。上記の「カタカナ理論」と同じ戦略で、複数の漢字を羅列させることで学問的な雰囲気を醸し出そうとしていることは是非多めにみてただきたい。
要するに、私たちは「誰かと言い争いたい」という欲求があるわけだ。しかし、「口論は避けたい」。この二者間の矛盾を以下のように説明させていただく。

ここで私の示す「誰かと言い争いたい」という概念には、自分の思想を他者の思想と競合させ勝利することで、正当化させたいという思いがある。それが競合でなかったとしても、自分の思想が抽出され、他者の目に触れ耳を通して彼らの共感・賛同を享受することで充足感を得ようとしているのだ。あなたの経験と照らし合わせて欲しい。あなたは友人から相談をされる。
「最近、彼女が冷たくってさ」
友人の言葉を一つ一つ掬い出し、よくみてみるとそれは相談と言うよりも愚痴と言った方が良いのだとあなたは気づく。友人はあなたの言葉を求めているのではなく、あなたの言葉を求めるという建前で自分の話を聞いて欲しい、要は自分を正当化したいと考えているのだ。

こうして得られる充足感は、投機的である。時としてあなたは友人に対して「いや、それは君がおかしい」と訴えかけることで大きな議論がはじまる。その結果、あなたは友人を「論破」する。ここであなたが感じる充足感は「この議論に負けるかもしれない」と言う投機性の高さに比例して、より拡大されたものであるだろう。

しかしこの白熱した議論、と言うよりも口論を私たちは極力避けたい。特に、家族や友人・ある程度の交友関係をもった人との間に影響を及ぼしたくない。だから私たちは充足感を求めて匿名の世界を駆け巡る。なぜなら、交友関係に影響を及ぼす危険を孕んでいないからだ。この仮想現実に足を一歩踏み入れたあなたは、自分のような人間が四方八方に存在していることに気づく。そう、ここならどれだけ戦ってもいい。目の前に置かれた武器を装着して、ひたすら戦い続ける。そうしているうちに、充足感だけを求めていたはずが、より高い攻撃力もあげたいと思うようになった。時として、攻撃力の上がった武器は殺傷能力の高い本物の武器として扱うことができるような武器だが、大抵は子供騙しの形だけを伴った武器だ。殺傷能力は言うまでもないが、ない。代わりに、その弾倉には個人の経験に由来する「感情」が込められている場合が多い。戦いたい。戦いたい。より多くの敵と戦って、勝利感を味わいたい・・・

こうして、思想は「コモディティ化」し我々の好戦的性向は強くなる一方なのであった。

と結論づけてしまうのは少し身勝手な気もするが、ここでのメタファーをより多くのピーポーにアンダースタンドしていただいていることを私はホーピングしている。


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