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求められるヒロイン像とは

 先達て初めてポケモン映画の『水の都の護神』というものを鑑賞しました。何やら名作と名高いようで期待して観たのですが、成る程名作でありました。一時間ちょっとの短い作品でしたが、わかりやすく簡明に構成されていながら、見事に世界観に入り込まされました。それは高い質のカメラワークや、画や劇伴の能力によるものでありますが、この映画をそれ以上に名作たらしめて今日でも語り継がれているのは、ヒロインの力が大きいと思われました。

 物語がある作品において、多くの場合ヒロインが存在します。恋愛の介在は今は論外として、ヒロインと主人公の関わり合いが物語の魅力や展開において重要になってきます。娯楽の傾きの大きい今日では、作品よりもキャラクターに対する注目度が高く、より一層のことヒロインの存在が重要になってきます。
 本稿ではポケモン映画という、老若男女をターゲティングした王道作品から、ヒロインの性質、その理想に対する思考の切れ端を得たいと思います。

 先述したポケモン映画のヒロインについて説明しますと、序盤に主人公と邂逅し、主人公に助けられて懇意になり、最終的には共に大きな困難に立ち向かい、最後は接吻をして別れます。
 すごく典型的な例ですが、誰もが理想とするような一瞬間の思い出のような形になっています。これによって作品の中で、理想を確認する幸福や、自己投影の結果として主人公の感じる幸福やらを感じることが出来るのです。

 では、作品中のヒロインは常に理想を形にし、主人公との幸せを得るべくして存在すれば、求められるヒロインと呼べるのでしょうか。
 そうではありません。単に理想そのものであり、思い通りであり、劣情の対象としてのヒロインの存在は、作品からリアリティを奪います。そして観る側の不快感を煽ります。観る側は理想を追求しますが、一定レベルまで度を越したヒロインを観ると、不快を感じる傾向が高まります。
 不快感とは、自分のなかにある倫理が劣情の対象としてヒロインを観ていた醜さに気が付いて、魅力を抑制して起こる負荷で、媚びているだとかいうような評価に名状されるものです。

 先述した作品のヒロインはこの点において巧妙でした。
 というのもヒロインは姿を自在に変えられるポケモンでありました。人の言葉を理解しますが、人の言葉を喋舌りませんでした。このファンタジー的要素が巧妙に観る側のヒロインの非現実的な理想性に気付かせず、度外させたのです。

 すなわち、求められるヒロイン像とは理想でありながら、理想ではないのです。理想と、理想すぎることを隠すための要素が要ります。
 また、これは今日の日本人に限った事かもしれないが、ヒロインは最終的には積極的であることが理想として受け入れられる傾向があります。受動的に愛を享受出来る必要があります。しかし、必ず此方が最終的には優位になれる必要があります。

 ポケモンの話に戻りますが、その作品の中においても、ヒロインは主人公をからかうように逃げ回り 、近い距離を取り、ヒロインから接吻します。 
 しかし、主人公はポケモンであるヒロインを守ってあげる立場にいるのです。
 さらに、これらの事実に、殊に自分の優位性に、気付かせないような仕掛けを持っている必要があります。これがいわゆるリアリティです。

 娯楽の世界において、これが求められるヒロイン像だと考えます。言ってしまえば、男にとって都合が良いが、全く都合が良いとは気が付かないようなヒロインです。万人が好む大体のヒロインの真に潜むものを調べるとこれが見えると思います。
 これに値しないヒロインを好むのは、自己の倫理が欠如していてセーブか聞かなくなっているか、歴戦の奇特家か、奇人であります。

 また、芸術の世界では話が全く変わりますから、その点は気を付けなくちゃいけません。しかし、娯楽においても芸術性が散見される方が好まれます。この理由は申したような話と似ていて、堕落を嫌う吾人の倫理に基づきます。ですから、芸術の世界においてもまあ応用が効くと思います。


---追記(いつだか忘れた)---

 聲の形という漫画があります。これは私の好きな漫画ですが、ここにもこの理想化されたヒロインが存在しますので軽く説明をします。

 主人公はヒロインに対して過去にいじめをしたという罪悪感を持っています。裏を返せばヒロインは主人公に対して優位性を持っています。
 物語終盤でヒロインは飛び降り自殺を未遂し、主人公に間一髪助けられるものの、主人公が大怪我を負います。ここにおいては主人公が圧倒的に優位です。ここが絶妙な優位性のバランスを取っているのです。
 また、ヒロインは聾唖であり、口語での会話は控えめで、ボディランゲージでコミュニケーションを済ませることもあります。主人公とは手話で会話しますが、ここには新たな理想の要素として、相互のみの理解が存在します。お互いだけが知っている秘密に近いようなものです。

 ここで、控えめと言いましたが、ヒロインから主人公に恋を告白するシーンがあり、かなり積極的な一面も有しています。先程優位性のバランスが取れている話をしましたが、もっと根底を言えば、主人公が優位を取れる仕組みになっているのです。非常に良くない言い方ではありますが、健常者と障がい者というこの性質的な優劣です。
 さらに、物語に出てくるのは大抵女で、ほんの少し出てくる男は主人公の付近の女との関係を持ちません。

 もはや理想化された要素のオンパレードであります。凄まじいほど理想化されています。ヒロインが一寸可哀想に映るのも、一種の効果です。

 さて、ここで重要なのは、この作品が非常に上手いのは、このヒロインの媚びた理想的要素を読者に気付かせない、障がいといじめ、ディスコミュニケーションというシリアステーマを持っているということです。本当はこのシリアステーマを魅力的な作品に落とし込む上で、このような仕掛けが盛り込まれているわけですが、ヒロインに注目するとこう反対も言えるでしょう。
 また、ヒロインは耳が聞こえません。主人公はヒロインをいじめ、他者にいじめられます。これらの重い要素が、不完全な要素が、ヒロインの理想性を巧妙に無意識化させているのです。また、理想への到達という非理想性を遠ざけているのです。


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