【SS】異世界エレベーター
異世界エレベーターという都市伝説があるのを聞いたことはないだろうか。
この都市伝説は、一人でエレベーターに乗り、特定の階のボタンを定められた順番で押し、異世界へと行けるというものである。
日頃なら都市伝説など信じていない。
だが、暇を持て余した長期休暇。
夏の暑い盛りでもあるし、わたしは、この都市伝説に対して気持ちが前のめりになっていた。
早速、都市伝説の内容を携帯のメモにコピーし、わたしは住んでいるマンションのエレベーターに向かった。
深夜とはいえ、マンションのエレベーター内に入ると、じっとりと蒸し暑かった。
わたしは一人でエレベーターに乗り込むと、まず四回のボタンを押した。
ガァッとささやかな音がして、エレベーターは四階に停まった。
扉が開く。別段、何も異常はない。
今度は二階のボタンを押した。
小さな機械音を立てて、エレベーターが降下する。
扉が開く。何も異常はない。
次は六階。
わたしはボタンを押し、ぼんやりとエレベーターが上昇していくのを見つめた。
扉が開く。何も異常はない。
深夜の暗闇が広がるのを、ぼうっと見つめて、わたしは二階のボタンを押した。
少し機械音を上げながら、エレベーターが下降していく。
扉が開く。何も異常はない。
エレベーター内から周囲を見渡すが、人の姿もなく、辺りは静寂に包まれている。
開いた扉から、むっと蒸し暑い空気が流れ込んだ。
暑くてたまらない。
気づけば、じっとりと体が汗ばんでいる。
わたしは十階のボタンを事務的に押した。
ぐっと力がかかるかのように、エレベーターがどんどん上昇を続ける。
七階、八階、九階。
わたしは移動する階が明るく点灯表示されるのを眺めていた。
十階に到達。
扉が開く。何も異常はなかった。
十階からの眺めは深夜と言うこともあって、主に暗闇しか目に映らない。遠くの方で人家の明かり、電灯の明かりが見え隠れしているものの、何ら驚くような光景は広がっていない。
本当に何の異常も起きない。
わたしは段々と高揚した気持ちがしぼんでいくのを感じた。
落胆した気持ちで、今度は五階のボタンを押す。
都市伝説の内容を記したウェブサイトによれば、『五階に着いたら、若い女が乗ってくる』と記されている。
この女性には話しかけてはならず、女性の外見も知り合いに近かったり、体験談や噂によって一概に同じ外見をしているとは言えないようだ。
要するに、この女性と話すと即座に異世界に引き込まれ、元の世界に戻れなくなってしまう、ということらしい。
八階、七階、六階。
わたしは移動する階が明るく点灯表示されるのを眺めた。
五階。
扉が開いた。
期待を込めて、わたしは誰かが乗り込んでくるのを待った。
誰でも良い。
誰かが乗り込んできさえすれば、わたしは異世界に近づくことができる。
わたしは待った。
しばらく待って、顔を扉から出し、辺りを見渡した。
指は『開』ボタンを押したまま。
誰もいない。辺りはしんと静まり返っている。
わたしはうなだれたように視線を下に落とすと、六階のボタンを指で押した。
六階はわたしの自室がある階である。
ガァッとささやかな音がして、エレベーターは六階に停まった。
わたしは停まったエレベーター内から外に出た。
角部屋である自室がある廊下の端へ歩いていく。
肩にかけたバッグから鍵を取り出し、ドアを解錠する。
だが、上手く解錠できなかった。
あれっ、と不思議に思う。
再度、鍵を鍵穴に差し込む。どうしても解錠が上手くいかなかった。
焦りつつ、今度はドアハンドルに手をかけた。
力を込める必要もなく、ドアハンドルは下に下がり、ドアが開いた。
わたしは開いたドアの中に体を滑り込ませると、後ろ手にドアを引いて鍵を閉めた。
違和感がある。
玄関に置いたスリッパが置かれていない。
それどころか、無造作にビニール傘が玄関に放ってある。
廊下の棚に置いた炊飯器や電気調理器、コーヒーメーカーが全て棚ごと消えている。
キッチンを見ると、調理用の菜箸や調理道具、壁にかけていたプラスチックのまな板もない。
シンク下の棚を開くと、置いてあったもの全てがそこにはなく、がらんどうだ。
あわててドアを開いてリビングに駆け寄る。
そこには何の家具も残っていない。
ただ、白いのっぺりとした布団がフローリングの床に置かれているだけ。
わたしは激しく混乱した。
どうして。一体何が。
動揺するわたしの脳裏に、ある一つの仮説が思い浮かぶ。
それは。
ここが異世界である、ということ。
もしかして、異世界エレベーターの手順を踏んだことにより、わたしは本当に異世界に行きついてしまった?
もし、それが本当なら、五階で乗り込んでくるはずの若い女性は、わたし自身だった、ということ。
わたしは倒れこむようにフローリングの床に膝を落とした。
どうして。何で。
もがくように、わたしは頭を抱える。
こんなはずじゃ。
単なる暇つぶしのつもりで計画したことなのに。本当に異世界に来るつもりではなかったのに。
わたしは泣きたい気持ちになった。
元の世界に戻りたい。
エレベーターに乗る前の、元の世界に。
どん、と急に背後から肩を押される。
わたしは驚いて、すぐさま後ろをふり返った。
そこには背の高い細身の男がいて、わたしを睨んでいる。
どういうことかわからず、わたしは押された肩を手で押さえた。
「ゆうちゃんかと思ったら、誰だよお前」
男はわたしを睨んだまま、そう言った。
「この部屋は俺とゆうちゃんの部屋なんだ。知らない奴が入ってくるな。さっさと出てけ」
わたしは飛びのくようにその場を離れ、ドアの鍵に手を触れると、弾けるように外に飛び出した。
荒くなった息を抑えつつ、飛び出してきた部屋の隣。そこで立ち止まり、部屋の表札に目を凝らした。
表札の部屋番号。それは――。
ガチャン、と先ほど飛び出してきた部屋から音が聞こえた。男が鍵を閉めたのだ。
部屋番号。
それは、『7』から始まる番号に、この階ではなっていた。