【SS】箱を開ける➁
さとり石?
そんな石があるとは、今まで聞いたことはない。
これでも、図書館や動画サイトで怖い話や奇妙な話に興味をひかれて読んだり聞いたりしてきたが、『さとり石』なんて聞いたこともない。
一体、どんな効果がある石なのだろうか。
わたしはもう一度、石を目線まで持ち上げた。
普通の石にしか見えない。
もしかして、有名な寺院か名所で使われた石の欠片で、鑑定すれば高価な値が付いたりしないだろうか。
わたしは石を何度も回転させながら、どこかしらに歴史の爪痕がないかどうか探した。
ひたすら石を眺めていると、わたしの視界に次第にぼんやりとした白い霧が忍び寄ってくる。
瞼を数回しばたたかせると、それでも白い霧は視界を侵食するようにやってきて、わたしにある一つのイメージを強制的に視認させた。
数学の試験。
いつもはわからないはずの試験問題が、そのときのわたしはなぜかスラスラと解けている。
授業を聞いてもノートを取っても、いつも赤点で覚えが悪いのに、試験問題を読んだ瞬間に、数学の公式を答案に書きながら問題を解いているのだ。
これは一体……?
弾けるように、イメージがぱっと視界の中で拡散した。
周囲を見渡しても、和室の様子は何も変わっていない。
通学鞄にある携帯画面を確認しても、時間も然程経っていない。
わたしは石を箱の中に丁寧にしまい込むと、うやうやしく箱を持ち上げ、桐箪笥の引き出しの中に戻した。
それから、少し時間が経って、定期試験の期間が到来した。
試験内容は暗記したり、ノートに再度まとめたりして何度も理解に努めた。
ただ、今回の数学だけは違った。
数学を学習する際は、いつもぼんやりとした思いで机に向かっていたはずなのに、今回だけは勘が特別冴えて、使うべき公式がちゃんと記憶できて計算することができていた。
今回の数学テストはできる。
わたしは意気込んで数学の答案用紙に式と答えを書き込んでいった。
その日の午後。
わたしは定期試験後と言えども、少しも寄り道をすることなく家に帰った。
息を切らしつつ、玄関を開け、鍵を閉めた。
リビングルームに行くと、母からのメモが置いてある。
駅近くのデパートに、近所に住む主婦と一緒に遊びに行き、夕食まで帰らないことが書いてあった。
わたしは喜び勇んで和室に飛び込んだ。
部屋の一角にある桐箪笥の引き出しを引き、奥にある高級そうな箱をうやうやしく取り出す。
畳の上に箱を置くと、箱の両横に指をかけて、蓋を横に置いた。
さとり石。
わたしは喜びに満ちた目で石を手にした。
白い霧が視界に忍び寄ってくる。
これは、魔法の石だと、わたしは思う。
霧は徐々に焦点を結び、今度は英語の試験を受けるわたしの姿が、そこにはあった。
いつもならば、リスニングはかろうじてできるのだが、英文の読解になると話にならない。
読んでいるうちに、どうしても他のことを脳が考えてしまって集中して読み通すことができないのだ。
だが、今回の英語テストは違う。
わたしは主語、動詞にマークをつけ、集中して文脈を理解できている。
関係代名詞の前に区切りを書き込み、関係詞節が先行詞をどのように修飾しているか、なぜか把握できている。
さとり石。
わたしは石を手に持ったまま、霧が晴れていくのを恍惚の眼差しで見ていた。
翌日の英語テストが終わり、わたしは足取りも軽く、家へ向かう電車に乗っていた。
英語テストの出来は、これ以上ないくらい完璧だった。
それもこれも、さとり石のおかげだ。
あの石があれば、わたしはどんな科目のテストだってできる。
わたしは浮かれきった気持ちで電車の座席に座り、気がつけば、降りる駅をどうも乗り過ごしてしまったようだった。
車窓から見える景色に、わたしは慌てて通学鞄を肩にかけながら停車した駅に降りた。
この駅は一体、何駅で、わたしはどうやって帰れば良いのか。
わたしは駅名を把握しようと、見慣れない駅のプラットフォームを歩く。
駅名が記載された看板を見上げ、愕然とする。
そこには、今まで見たことのない文字列が太いしっかりとしたフォントで記載されている。
「莉、譛」
その下には、一駅先の名前が両横に記載されているが、これも読めない。
「←逹ヲ譛 蜊ッ譛→」
一体、何が起きているの。
わたしは階段側にある電光掲示板に視線を移した。
「16:20蜷?ァ?●霆 逹ヲ譛亥ァ狗匱 蟶ォ襍ー 邨らせ縺セ縺ァ蜷?ァ?↓蛛懊∪繧翫∪縺吶?」
「16:20蠢ォ騾 逹ヲ譛亥ァ狗匱 讌オ譛 譚ア莠ャ蜊∽コ梧怦邱壼?縺ョ蛛懆サ企ァ??縲∫擱譛医?∽サ、譛医?∝艮譛医〒縺吶?ょ艮譛医°繧牙?縺ッ逾樒┌譛医∪縺ァ諤・陦後→縺ェ繧翫∪縺吶?」
電光掲示板にある情報が少しも読めなくなっている。
わたしは通学鞄から携帯を取り出した。
ロック画面を見て、わたしは驚きに目を見張る。
「16:11 驥第屆譌・縲?荵セ辯・豕ィ諢丞?ア縺ィ縺昴?莉厄シ剃サカ」
携帯画面ですら、見たことのない文字列に置き換わっている。
わたしは急いで、改札を通り過ぎて駅内か、もしくは駅の近くに設置してある緑の公衆電話へと向かった。
知らない駅の中に自分がいること、文字のフォントが急に何らかの原因によって、おかしくなってしまったことを母に伝えなければならない。
もしかしたら、これは日本中で突発的に起こったシステム異常かもしれないのだから。
幸いなことに、駅構内に設置された公衆電話を使用している人は一人もいなかった。
わたしは震える指で十円玉硬貨を二枚、投入口に押し込む。
数字のボタンを押し、家の電話番号にかける。
プルルルル。プルルルル。
二回呼び出し音が鳴った後。
電話がつながり、母が「もしもし」と、言うのが聞こえた。
「あっ、お母さん! あのね、今、大変なの。電車を乗り過ごしちゃったんだけど、どこを見ても文字がおかしくなって読めないのよ。多分、機械が異常を起こしてシステムエラーになったと思うんだけど、携帯も画面の文字がおかしくなっていて」
まくしたてるように言うわたしに、母は一瞬の間を空けて言った。
「何言ってるの? 機械の異常なんて起こってないわよ。今、ニュース番組をテレビで見ているからわかることだけど……。どうしたの。定期試験を受けて疲れて、頭がまいっているんじゃないの。そもそも、前から勉強に取り組む姿勢なんてあまりなかったくせに、今回だけ浮かれたように勉強しちゃって。お母さんね、そういう気まぐれに勉強に取り組む態度、感心しない繧上h縲ゅ◎繧薙↑諷句コヲ縺ァ縺雁ー城▲縺?r荳翫£繧阪▲縺ヲ險?繧上l縺ヲ繧ゅ?∽ク翫£縺セ縺帙s縺九i縺ュ縲ゅo縺九▲縺ヲ繧具シ溘??繧ゅ▲縺ィ蟆?擂縺ョ騾イ霍ッ繧偵h縺剰??∴縺ヲ」
わたしは母の声で語られる、聞いたこともない異言語を耳にし、電話口を耳元から少し離した。
さとり石。
あの石のせいで、わたしは一生、このおかしな世界にとらわれる。死ぬまで、一生……。
体を妙な浮遊感が襲い、わたしは駅構内の床にどさりと倒れ込み、放心したまま意識を失った。
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