■ 野嵩石畳道 ■ 4 Masaki Senko 2019年3月9日 15:04 野嵩石畳道は琉球王府時代に整備された首里と間切を結ぶ公道、「宿道」 に築造されたました。当時の主要街道・中頭方東海道のひとつ宜野湾宿道と、それから分岐する勝連・具志川間切や中頭間切の宿道を結ぶ要衝の地でもありました。石畳築造の年代は不明で、18世紀後半とされています。もともとこの石畳道は、野嵩区の東はずれから普天間側に掛かる我謝橋に築造され、120mの長さでしたが、現在は60mほど残っています。 古老によると、この石畳道は今から500年ほど前の護佐丸の時代に築かれたとも。かつて、「護佐丸・阿麻和利の乱(西暦1458年)」の際に、阿麻和利の軍勢により敗れた護佐丸の妻子が、その石畳道を 登って逃げるとき、追ってに射かけられた弓矢により妻の袖が引き離されたことから「袖離れ坂(スディバナビラ)」と呼ばれています。そんな野嵩石畳道は、 平成元年に宜野湾市指定史跡されました。 かつて石畳道の上からは、中城村一帯の田園風景が一望できる名勝だったそうです。撮影中、おばあが石畳を登ってきて、「こんな何もないもないところで何撮影してる?」と話しかけてきまし た。おばあは、この石畳を通って普天間まで買い物に行っていたそうです。そんなおばぁ、石畳の上からしばらく中城方面を見ていました…おばあには、かつて の田園風景が見えていたでしょうか? #写真 #Photograph #沖繩 #石畳道 4 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート