知識と知恵と智慧 八木まゆみ
本日の言志後録の勉強会
プレゼンテーターは株式会社MYMの代表、八木まゆみ氏が登壇。
八木まゆみ氏は、ビジネスコミュニケーション関連の企業研修・コンサルティングのプロフェッショナルとして、多くの大手一流会社で研修をされている企業研修のプロフェッショナルだ。
そのため、研修を受けているような学び多き15分間でした。
今回、八木氏の担当は、言志後録第4条・5条
言志後録第4条
凡そ教は外よりして入り工夫は内よりして出づ。内よりして出づるは必ず諸を外に験し外よりして入るは、当に諸を内に原ぬべし。
教え(=知識)は外から入ってくるものであり、工夫(=知恵)は自分の内から出るものである。内から出たものは、必ず外で験して、それが正しいことを実証すべきであり、外から入ってきたものは、自分で正否を考究・検討すべきである。
知識・知恵・そして智慧とは何か。
知識とは人から教えられたり、本を読むなどし吸収するものであり、外的からのデータのインプットである。
知恵は、自分の内側から湧き出るもの考動であり、問題処理能力、経験から蓄積であり、考動 つまり、データのアウトプットである。
呼吸に例えると、息を吸うのが知識であり、吐き出すことが知恵である。
知識は仕入れたままにしておかないで、自分の頭でその意味や正否を検討吟味することにより、始めて生きたものになる。
そして、知恵は思いついたままにしておかないで、外の世界で検証することによって正否がわかる。
呼吸と同じで、知識として吸い込んで、知恵として出す。
それを繰り返すことで、軸が整えられていき、社会活動における活力になるのだ。
しかし、それをどこかで止めてしまう。
知識を吸収したたけで、吐き出さずにいるとどうなるか。
そう、窒息してしまうのだ。
情報化社会の現代、情報に窒息してしまい、頭に酸素が廻らなくなり、思考停止状態に陥っている人が、どれだけ多くいるか。
窒息すると、どうなるか。
思考停止状態、脳停止状態に陥るのだ。
つまり、何も思いつかない、考えたくない、考えられない。
「学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」論語 為政第二『子曰、学而不思則罔
論語にも書いてあるが、「学ぶ」とは外から知識を得ること、「思う」とは自分の頭で考えることであり、知識を仕入れるだけでは、しっかりした理解につながらず、また、自分の頭で考えるだけでは、独りよがりになって危なっかしいという意味だ。と八木氏は解説してくれた。
つまり、
知識があっても知恵がなければ無駄である。
インターネットが普及し、誰でもすぐに調べられる現代において、あたかも知っているような気になり、深く考えることをしない風潮が広がってきている。
すぐにググればよく、ナビの言うとおりに運転すれば目的地に間違いなく到着するこの時代、どう生きるべきなのか。
しかし、ここで留意しなければならないことは、
「知識がなければ正しい判断はできない。」ということだ。
始めての土地を、ナビも地図も用いずに運転して、道を間違え、それを繰り返すことで経験を積みながら目的地に到着するというのが、トライアンドエラーだが、それを敢えて行う人などいるだろうか。
今の時代、情報を効率的に集積し、それに基づいて判断力を養う事が大切である。つまり、トライアンドエラーとは、情報を収集した上での判断力のトライアンドエラーになる。
判断は知識では行えない。判断力に必要なものは、知恵である。
知恵と智慧
知恵が育たないとどうなるか。次の第5条に続く
言志後録 第5条
吾人は須らく自ら重んずることを知るべし。我が性は天爵なり。最も当に貴重すべし。我が身は父母の遺体なり。重んぜざるべからず。威儀は人の観望する所、言語は人の信を取る所なり。亦自重せざるを得んや。
【筆者意訳】我々は、自分を尊い存在として大切にしなくてはならない。自身の本性は天から与えられたものであるから、最も大切にしなければならない。自身の身体は父母が遺してくれたものであるから、重んじなければならない。自身の威儀容貌(作法にかなった立居振舞)は人の見るものであり、言葉は人の信用を得る所のものであるから慎重に振舞わなければならない。
講談社学術文庫 川上正光訳 言志四録(二)参照
知識だけ集め、知恵が育たないとどうなるか。
自信が育たなくなるのだ。
文部科学省が行った若者の意識調査によれば、日本の若者の自己肯定感は、諸外国に比べて著しく低いという結果が出ている。
一例を示すと、自分をダメな人間だと考える若者の割合は、中国で56%、米国で45%、韓国で35%であるのに対し、日本では72%と高い数字になっている。これは大陸的人間と、島国的人間の考え方の違いも反映しているだろうが、若者の中で、自分自身について否定的な見方をしている人が7割を占めるというのが現状だ。
その原因は何なのか。
ここに出てくる言葉に、「自重」というのがある。
自分を重々しく感じる、見せる、取り扱うという言葉だ。
つまり、自分を尊厳するということ。
一斎先生は、自分を、自分だと思うから大切に出来ないのだと説いている。
それでは、こう考えてみたらどうだろうか。
自分の身体は、両親から授かったものなので、
両親から、借りているもの。
自分という存在自体も、先祖やその前の時代の人達の努力の結果の上に存在している状態である借りもの
つまり、自分は自分のものではなく、多くの人によって作りだされた努力の結果が自分であり、自分の家系から借りているだけに過ぎないと思うと、自分をより客観し出来て、もっと大切に出来るのではないか。と説いている。
だって、
自分のものではないのだから。
他人のものだと思えば、
もっと重々しく、尊厳することが出来るのではないか。
日本人はそういう国民性だから…。
日本人は礼儀正しい。
何に対して礼儀正しいかというと、他者に対して礼儀正しい。
自分を大切にしなさいと言ってもダメだったら、
親や先人達から借りている自分という存在を大切にしなさいと
確かに切り口変えれば、違う視点で捉えられるかもしれない。
最後に知恵と智慧について八木氏は下記のように解説してくれた。
知恵には大きく分けて2つの意味がある。
①物事について考えたり、判断したりする頭の働きであり、例えば「子どもが知恵を付けてきた」「知恵者」 というように用いる言葉だ。
②アイデアを指す用法である「知恵が回る」「知恵を絞る」良い考え、アイデアを指す
つまり、知恵とは、頭の良さや判断力の意味でつかわれ、知恵のある人というと、頭のいい人や、機転の利く人のことを示す。
一方、智慧は、真理の追究 真実を考える頭の働きを指す
ここで八木氏は、
知恵は、損か得か。
生産性 効率 勝敗 物質的・意識的などどちらかというと、現実社会におけることに用いる言葉であり、
智慧は、真か偽か。四徳 仁に基づく知恵 智・善悪を分別など、精神世界において用いる言葉であると解説した。
知恵は、仕事や利益獲得など、現実社会における言葉。
これは知識を、現実的アイデアとして呼気として発するもの。
社会でいうと、同僚や仕事相手と共有する思考力だ。
智慧は、道徳や生き方や道など、精神社会における言葉。
知識を、精神的指針として呼気として発するもの。
社会でいうと、上司や尊敬する人物から吸収し、子供や部下に伝えるもの。
社会に出たばかりの時は、知恵だけで良いのだが、
上に立つ地位に近づくにつれ必要になるのが、知恵と智慧の両方だ。
そのため、最初は知識を知恵にするトレーニングで良いのだが、社会で成長するのに必要なことが、知識を智慧にするトレーニングであり、それを人間教育という。
パワハラだと言われるのは、この智慧が欠如していることも一因であり、澁澤栄一翁の「論語と算盤」など、正にこの「智慧と知恵」の必要性を唱えたものだろう。
これからは女性の時代。
女性上司と男性部下という構造が普通になる時代だ。
男性社会は、「智慧」を尊重している。
故に、男性を部下にする場合は特に、この「智慧」と「知恵」に意識し、自分を高めていくことが大切だろう。
八木まゆみ氏は、女性起業家たちの研修事業及びコンサルティングも行っているので、東洋古典的視点からの企業研修を依頼することを推奨する。
ご購読ありがとうございました。
山脇史端
八木まゆみ
国内エアラインのCAインストラクターとして接遇指導・査察業務および採用面接官を担当。VIPチャーターフライトのパーサーやマネージャーとして客室業務の統括とコーディネートを行なって参りました。2000年に独立して株式会社MYMを設立。ビジネスコミュニケーションのテーマを中心に企業の研修とコンサルティングを行なっています。経営コンサルティングファームとのコラボプロジェクトも数多くあり、「楽しくて眠ってなんかいられない」、「もっと講師と会話したくなる」そんなレクチャーにクライアントから定評を頂いています。
保有資格
・日本産業カウンセラー協会認定産業カウンセラー
・プロフェッショナルコーチ