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論語と算盤 要約⑦ 算盤と権利

仁に当たっては師に譲らず


 キリストも釈迦も、最初から宗教家である。
それに対して、孔子は経世家(儒教思想に基づく政治経済論者)である。

 キリスト教は予言者が登場し、成立しているため、
その教旨は命令的で自己主張の強いものであるのは、当然なことでもある。 

 故に、キリスト教や仏教が権利思想(「こうせよ」という自己主張の強いもの)であるのに対し、儒教は、孔子が「正しい世の中にするのにはどうすれば良いのか」と質問され、それに答えた門答集を弟子たちがまとめた「論語二十篇」から始まったものなので、

 どうしても、「ああしろ、こうしろで」と積極的に説いておらず、
「人はかくあれ、かくありたい」というように、消極的に説いている。

 キリスト教の「愛」と、儒教の「仁」はその目指す所は同じである。

キリストは「己の欲する所を人に施せ」と説くが、
孔子は「己の欲せざる所を人に施すなかれ」と述べており、自動的と他動的の違いがある。

 又、キリストも釈迦も奇跡をたくさん起こしている。
これは迷信と言えばそうなってしまうだろう。
それに比べて儒教には、そのような話は皆無である。

それでは、論語には自己主張(権利主義的な質)はないのか。

「仁に当たっては師に譲らず」
道理に正しいと思えば、例え尊敬する師匠に対しても、その道理を譲る必要はない。仁徳のためならば、師匠に逆らってでも貫きなさい。

 この言葉など、大いなる自己主張ではないか。
このような言葉は論語には沢山見出す事ができる。

儒教とはそういう学問なのである。

金門公園の掛札

 アメリカ、サンフランシスコに出張の際、金門公園(ゴールデンブリッジ公園)に「日本人泳ぐべからず」という掛札があった。
何故かときいた所、アメリカ人女性が泳いでいるとき、日本人青年が潜水して足を引っ張るという事件があったため、そのような掛札をかけたとのことだった。

ちょっとしたいたずらが、簡単に反日感情に結びついてしまう。外国に出た際は注意して欲しいものだ。

ただ王道あるのみ

 江戸時代まで「経営者と従業員」は、家族的関係で成立していた。
しかし、明治に入り、法律が制定されると、両者の間に権利義務という名の障壁が介在してしまい、人間関係が険悪になり、それまでの情愛ある和合団欒がなくなってしまったように感じる。

 確かに法律も大切だが、万事それに裁断を仰ぐという事ではないように感じるのだ。

  それでは、経営者と従業員が遵守すべき「王道」とは何か。

 王道とは、行動定規のようなものである。
資本家は王道を持って従業員に接し、従業員も王道をもって資本家に接する。両者が行う事業の利害損失は、両者に深く関係するため、法的権利義務の観念であり、いたずらに両者の感情を離すものではあってはならない。

 和気あいあいとした家族的な組織こそが理想であり、このような組織であれば労働法も必要なく、労働問題も起こらない。

 貧富の問題は確かにある。しかしこの問題は、どの時代においても必ず存在してきた。全国民が豊かになるにこしたことはないが、物質的豊かさは誰もが求めるものでもなく、また能力の違いもあるため、富の分配が平均的な社会など空想にすぎない。

 豊かになるという行動そのものは、国を豊かにし、活気を与える。その結果貧富の差が生まれるのは自然の成り行きであり、問題なのは、この両者の関係なのではないか。

 富める者と貧しき者が、家族のような関係で結ばれる社会こそが、王道だと思う。

競争の善意と悪意

道徳とは何か。
「孝悌は仁をなすの本(もと)」という孔子の言葉がある。

 孝悌(年長者に対する崇敬)が全ての基本であり、
そこから仁義、忠恕になり、これらを総称して道徳という。

 これが道徳の基本であり、それが発展して、商業の道徳・武士の道徳・政治家の道徳というような使われ方をしている。

「競争の道徳」という言葉もある。

 世の中をよりよくするには、切磋琢磨、競争は必要であり、
競うからこそ頑張るエネルギーも生じてくる。

そのため、「競争は勉強・進歩の母」であるともいう。

この「競争の道徳」には、善意と悪意の二種類がある。

 毎朝誰よりも早く起き、学び、知恵をもって他者に打ち勝つというのは善意の競争である。しかし、他人の真似をして手柄をとったり、邪魔をして勝とうとするのは悪意の競争である。

 単純に分けてしまったが、実際の事業活動は多種多様な要素があり、競争の善悪も複雑化しているため、判断が非常に難しい。

 自分に利益が出ても、その結果が、多くの人の活動を妨げてしまえば、大局的には損失に繋がる。その弊害が国家全体にも及んでしまう活動などは、悪意の競争の結果である。

海外でこれを行うと、日本のビジネスマンは軽蔑されるだろう。

そんな事はしないと思うかも知れないが、海外貿易、特に輸出業において、悪意の競争により国家の品格が悪くなるケースはよくあることだ。

そのため、できる限り意識して善意の競争を行うことが大切であり、その柱になるのが「商業道徳」である。

商業道徳を守るには、日常の一つ一つの積み重ねが大切である。
約束の時間を守る、相手の気持ちを思いやり譲り合う、相手に安心感を与えるなど、商業道徳の基本である。義理人情にも厚くなければならない。

そのため、ちょっとした商いにも、道徳を意識しよう。
妨害的に相手の利益を奪うことがないように留意する、これこそが、競争道徳の基本である。

相手の利益を奪う事がないよう注意を払うことこそ、健全なる競争発展の基本ではないか。

合理的の経営

不正をしていない限り、商売には機密というものはないはずだ。しかし株主より委託された資産を、自己占有のものと勘違いし、勝手に運用して私利を得ようとする経営幹部が横行している。

経営幹部の人選は非常に難しい。
役職の名が欲しいだけの虚栄的な人物なら、そんなに悪いことは出来ないので心配することはない。

人間としては善良だが、経営能力がない者の方が、部下の能力の識別が出来ず、組織を窮地に陥れる事があり問題だが、これもまた大した悪事は出来ない。

問題となるのは、株価が低いと都合が悪いといって、ありもしない利益を計上したり、虚偽の配当を行うなどして株主を騙す行為をする、会社を自己の栄達の踏み台にしようする経営幹部だ。これは明らかに詐欺行為であるが、放置しておくと、更に会社の金を流用して投機をしたり、自己の事業に投じたりするなどして、会社全体に多大なる損失をもたらしてしまう。

これは道徳心が欠けるから起こる弊害で、事業に忠実な人物は、やりたくても出来ないことだ。

仕事とは、一個人の利益を求めず、社会全体に益のあるものでなければならない。

 商業的にどんなに一個人が金持ちになっても、国民全体が貧困に陥った社会では、幸福感は持続されないのではないか。

多数の人々が富を得られる道こそ、真の合理的経営である。

要約 by 山脇史端

参照 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)/渋沢栄一

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