2024長崎くんち 銀屋町 7日朝
2024.10.07
2年連続で長崎くんちにやってきたが、7日は雨の予報も出ているため、気がかりは、雨であったが地元民に聞けば、台風でも来ない限り、くんちは延期にならないよと教えられていた。だって、笠鉾だけじゃ無い、陣営の衣装はもちろん、女性陣の正絹の着物が濡れたら大変でしょに皆くんちに対して畏敬の念を持っていて、衣装が濡れることに対してなんとも思っていないそうで、正に天晴れだね。長崎くんちは唐津くんち・博多おくんちと並んで「日本三大くんち」と言われています。
六番手、セミファイナルは、銀屋町です。銀屋町は、長崎市中心部を流れる中島川に架かる石橋「袋橋」から寺町の「皓台寺」に通じる通りに面した一帯です。以前の銀屋町の奉納踊り「大名行列」で、1819年に考案され、銀細工の取引があった尾張徳川家の「鷹狩り」行列を表現したものと云われています。その大名行列の奉納は昭和11年が最後となり、戦後の昭和25年と32年は「本踊」、39年は「奴道中」を奉納していた。ところがこの後銀屋町のくんち奉納は途絶えた一番の理由は、昭和38年に国が制定した「住居表示法」で、昭和41年に銀屋町は古川町と鍛冶屋町に編入となり、江戸初期から300年以上続いた銀屋町が無くなり、町の人々の嘆き・喪失感は大きく、奉納踊りを出す気力は失せていた。それでも旧銀屋町の住民が組織した「銀屋通り自治会」がくんちを引き継いだことから、昭和60年に新しい奉納踊「鯱太鼓」での踊町復活へと繋がるのです。
昭和57年7月23日、長崎市は未曾有の大水害に見舞われ、銀屋町も中島川の氾濫により多くの家屋が床上浸水被害を受け、長崎大水害のような災害が再び訪れないようにとの願いと、大水害から復興に立ち向かう人々に吉祥が訪れるようにとの願いを込めて始まったのがこの鯱太鼓であった。
長坂下から3段目の位置から観覧していたものだから、太鼓からの鼓動がズンズンと体に響き、男ならではの躍動感に目頭に熱いものが流れていった。据太鼓と46人の担ぎ手が担ぐ山飾だしによる演技で、「古代中国において、東の方向、大海に棲む神仙の鯱が海原を裂き天空を目指して昇り、蒼天に至って『黄金の竜』となり人々の吉祥を招いた」という言い伝え「蓬莱鯱(ほうらいこ)伝説」に基づくものであった。
「鯱太鼓」は鯱を呼び覚ます据太鼓の演奏から始まり、そして約750kgの山節(ダシ)が担ぎ上げられ、踊り馬場を所狭しと駆け回り、回転し、「ホーライコ!」という掛け声で天高く放り上げられます。これは鯱が荒波に翻弄されながらも、力強く天に舞い上がって龍になる様を表しているそうで、回転の際は勢い余って振り飛ばされた担ぎ手もでていた。
全員が半纏を脱ぎ、一斉に放り投げるシーンも見どころで、それにしても今年は「鯱太鼓」が見られて、ラッキーというのも、くんちの演し物の大半が曳き回す山車なのに対し、担ぐ山飾(ダシ)は「鯱太鼓」と樺島町の「太鼓山(コッコデショ)」の2つだけで、山飾(ダシ)が宙に舞い、それを片手で受け止めるという独特の演出が感動もので、2024年くんちの中で一番良かった演し物であった。この話題の山飾(ダシ)が見られるのは基本的には両町に当番が巡ってくる年だけで、チャンスは7年に2回ということで、平成26年は当たり年なんですね。38名の一糸乱れぬ演技にメンバー集めに苦労したと思われる。するとこんな書き込みがあった「くんちはみんなの祭りやけん、やりたか人は誰でも来なさい、と。そのかわり、やかまし言うて鍛えるけん、途中で抜ける人もおる。残ったやつは大したもんです」。そんなど根性の男たちにヨイヤーで、録画せずこの姿を眼に焼き付けていた。
2024年に観覧できたことは本当にラッキーであった、2024年くんちの中で一番思い出深い演し物であった。銀屋町ヨイヤー!
#銀屋町