碓氷関所跡


2024.04.13
JR横川駅見物から次は、碓氷関所跡へ行こう。碓氷関所跡は、元和9年(1623年)徳川秀忠により横川の地に設置され、明治の廃関までの間、東海道の箱根関所と並び、中山道の最重要地点として「入り鉄砲と出女」を取り締まりました。現在では市内の旧家に残されていた門扉や柱を使い、昭和35年に東門を復元していた。敷地内には史料館(予約制)がありますが、開館時間前であり、内覧は出来ていなかた。関所資料館 ■開館時間/午前9時~午後4時 休館日/土・日曜日・祭日/振替休日・年末年始(12月28日~1月5日)。


ここも旧中山道五十九次を歩いた2014年6月に訪問していたが、往時と全くと言って変わらない姿のようだ。


敷地内に「安政遠足」のポスターが掲げられていたが、安政遠足の由来は、 安中藩主、板倉勝明侯は、安政2(1855)年、藩士の心身鍛練の目的をもって、安中城内より中山道を西に碓氷峠の熊野権現まで7里余りを徒競争させ、その着順を記録させた競争であった。令和6年、第50回安政遠足侍マラソン大会は、令和6年5月12日(日)に開催されるそうだ。


東山道が開け万葉集に防人の歌が詠まれた碓氷峠は、東日本から西日本への通過地点として交通の要路でした。


この山裾に関所ができたのは九世紀末の平安時代の昌泰2(899)年で関東が乱れ運輸交通上警備の必要から関門が設置されました。


碓氷峠東側の地形は関東を守る重要な地点でした。江戸時代の中山道が整備されると元和9(1623)年に安中藩主井伊直勝が、地形的にも堅固な上横川の狭間に新しく関所を作りそこに移り、箱根と共に天下の二大関所であった。


当初は横川関所と呼ばれていましたが、宝永5(1708)年に碓氷関所に改称しています。特に3代将軍徳川家光が寛永12年(1635)に武家諸法度を発布し、参勤交代を義務化すると、多くの大名が中山道を利用するようになり碓氷関所は関東への入口の1つとして非常に重要視されました。


これは碓氷峠が信濃国(現在の軽井沢)と上野国(現在の安中市松井田町坂本)との国堺だけでなく、中部地方と関東地方の境界線でもあり、さらには中山道の難所として精神的な防衛ライン的な要素がありました。又、碓氷峠を超えるには道が限られおり、ここに関所を構える事は管理上も有利だったと思います。参勤交代で中山道を利用する大名は加賀藩前田家をはじめ30数藩にのぼり、それに伴う「入鉄砲と出女」は明治2(1869)年に関所廃止令が発令されるまで厳しく管理されました。


参勤交代で碓氷関所を利用する大名は関所を前後する坂本宿では本陣、横川では茶屋本陣で身支度を行い、正装した姿で関所を通過したとされ、大名にとっても特別な場所だった事が窺えます。碓氷関所は安中藩と幕府が管理し、東門は安中藩、西門は幕府が所轄し、番頭2人、平番3人、同心5人、中間4人、箱番4人、女改め1人と通常の関所に比べても多く厳重に取り調べが行われていたようです。現在の碓氷関所は旧東門の門柱と門扉を利用し旧番所跡地に移築復元されたもので貴重な事から昭和30年(1955)に群馬県指定重要文化財に指定されていた。

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