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日本史 / 秦氏の謎

こんにちは、TOYOです。
秦氏 (はたうじ / はたし) は、古代に日本に渡来したとされている、「秦」を性とする氏族で、東漢氏などと並び有力な帰化氏族です。
「天皇制」や「神道」など、日本の基礎を築いたのが秦氏 とされています。

この秦氏の正体とは、一体何者だったのでしょうか?
今回は、秦氏について考察していきたいと思います。


秦氏 (はたうじ)

秦氏と秦の始皇帝

秦氏は、「日本書紀」には,応神天皇のとき百済 (くだら) から120県の民をひきいて渡来したとあります。
じつは、追放されてアジアに来たネストリウス派である、原始キリスト教の一派であり、「イスラエルの失われた10支族」の一部族「エフライム族」です。
渡来したその数は17万人とも言われています。

※イスラエルは北王国と南王国に分かれました。北がエフライム族、南がユダ族による2つの王国が誕生しました。

原始キリスト教

12使徒

原始キリスト教の一派は1世紀の段階でアジア、インド、中国に来ているとされています。それは、十二使徒の時代です。
原始キリスト教の教えは、今日は伝わってはいません。

イエス・キリストの本名は、イエシェア (ヨシュア)・ベン・ヨセフであり
ユダヤ人です。
しかし、後の原始キリスト教は、十二使徒筆頭のペテロ派とパウロ派の2つの流れがあります。

ペテロとパウロ

ペテロ派は十二使徒全員がユダヤ人。パウロ派は一番弟子が医師であり、
「ルカの福音書」で知られるルカ。彼はユダヤ人ではなく、ギリシャ人です。

パウロはその後、アンティオキア、シリア、トルコの方へと伝道していって、最終的にヨーロッパへと伝えていきます。
これが「カトリック」と「正教」の流れです。

一方、ペテロの方は、ペテロが殉教した後、十二使徒の教団を率いたのは、イエス・キリストの弟、ヤコブでした。
ヤコブがユダヤ人のペテロ派を率いたのです。

ヤコブ派

紀元66年に「第一次ユダヤ戦争」が勃発します。
その時に、このヤコブの一派はエルサレムから突然、姿を消し、ヨルダン川東側にあるペラという地域に移住しますが、その後、消えてしまいます。

彼らはどこへ行ったのか?…中国です。
つまり、1世紀には既に中国に原始キリスト教が入ってきているのです。
当時は「キリスト教」という言葉もないので、彼らは「クリスチャン」とは言いません。

そのため、中国では彼らに名前を付けます。ヤコブの一派は「ローマ」から来たと言います。
古代中国において「ローマ帝国」は「大秦 (だいしん) 」と書きます。
そしてその「」の方を取って名字(性)とします。

それ以外にも「秦」を名乗る人たちは、朝鮮にもいますが、一番多いのは
済州島 (チェジュとう) です。
また、北朝鮮や中国にも「秦」を名乗る人たちはいます。

秦氏の正体

『魏志倭人伝』には「卑弥呼」と「邪馬台国」が書かれていますが、その中に「韓伝」というのがあって、そこには「秦人 (しんじん) が大量にやって来た」と書かれています。

4世紀、このユダヤ人の一派が朝鮮半島を通って、日本の九州にやって来ました。
それが「秦氏 (はたうじ) 」です。

しかし、日本に来たのは彼らだけではありませんでした。
秦氏にはいろいろな流れがあります。
このヤコブ一派はローマ帝国からの流れをくむユダヤ人。

一方、騎馬民族や、文字通りの秦の始皇帝に仕えていた者たち、彼らも「秦」と名乗りました。
賛否両論はありますが、騎馬民族が渡来し、当時の日本を征服して「大和王権」を確立した、という説があります。

ただ、この時期に大量の渡来人がやってきて、ヤマト王権が確立したことは間違いないようです。
そして、その下支えとなっていたのが秦氏です。

さらに、秦の始皇帝の「徐福 (じょふく) 」も来ており、彼らも「秦」と名乗ったという伝承があります。

中国の歴代王朝には秦の始皇帝の秦帝国以外に、「前秦」「後秦」「西秦」という3つの秦という国があって、秦氏は漢民族ではなかったのです。
彼らはみな "イスラエル系のユダヤ人" でした。

秦氏は縄文人(五色人)の末裔

五色人

彼らイスラエル系ユダヤ人は、元々、日本から旅立った縄文人(五色人)の末裔たちなのです。
つまり、日本に渡来してきたというより、祖先が住んでいた日本に帰って来たということです。

大分県宇佐市

秦氏は、応神14年(283年)日本に稲荷神社などを創祀、織物や土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草などを広めたとされています。

彼らは日本の九州の宇佐のあたり(当時は豊前豊後、豊国と呼ばれていました。)に移り住んだのです。
この地域は、随書倭国伝に「秦王国」と書かれています。

その秦氏が渡来したことで、それまでの縄文・弥生時代の文化が一変してしまったのです。
そして、秦氏により「日本の基礎」が築かれていくことになります。

応神天皇

宇佐神宮

稲荷神社や八幡神社などの神社、全てを作ったのは秦氏です。
京都の「伏見稲荷大社」を作ったのも秦氏です。
また、八幡の「幡」は「秦 」で、「はた」と読みます。

宇佐神宮に祀られているのが「応神天皇 (おうじんてんのう) 」、またの名を「八幡大神 (はちまんおおかみ) 」と言います。
八幡神社は全国に一番ある神社で、祀られている神様の正体は、第15代応神天皇なのです。

神功皇后

その応神天皇の母が「神功皇后 (じんぐうこうごう) 」であり、その祖先は「天之日矛 (アメノヒボコ) 」という新羅の王子です。天之日矛は秦氏です。

つまり、応神天皇も秦氏であり、明治時代までの天皇家は秦氏なのです。

エフライム族と天皇家の共通点

聖書と日本書紀や古事記で、エフライム族と日本の天皇家系図を見比べてみると、そのまま一緒であることがわかります。

つまり、エフライム(秦一族)と日本の「ウガヤフキアエズ王朝」は同じものとも考えられます。
ウガヤフキアエズは神武天皇の父です。

ウガヤフキアエズ王朝

九州のうち黒っぽく塗りつぶされている大分県(豊日)・宮崎県(奇日)・鹿児島県(建日)の東部(大隈半島~種子島・屋久島にかけて)が、ウガヤフキアエズ王朝の本拠地だったようです。

徐福 (じょふく)

秦氏は渡来人ですが、出雲族・国津神「素戔嗚尊 (すさのおのみこと) 」は秦氏以前に日本に来ています。

そこで、日本に渡来したのは「徐福 (じょふく) 」でした。
徐福は、秦の始皇帝の命により、東方海上の三神山(蓬莱山)にあるという "不老不死の薬" を求めて、3000人の童男童女を引き連れて日本にやって来たとされている人物です。

徐福は出雲族

古代出雲大社高層神殿

徐福は秦の国に滅ぼされた「 (せい) 」の国の出身ですが、始皇帝と同じ「 (えい) 」の性を持ちます。つまり、秦の始皇帝とは同族です。
そして、徐福は日本から秦国へは戻らなかったのです。
この徐福の一派もまた「出雲族」なのです。

中国の仏書である「義楚六帖 (ぎそりくじょう) 」には、富士山に徐福がやって来たこと、徐福の子孫たちが  「秦氏」を名乗っていたことが記されています。

三柱鳥居

上の写真は京都太秦 (うずまさ) にある、蚕ノ社 (かいこのやしろ) と呼ばれる「木嶋坐天照御魂神社 (このしまにますあまてるみたまじんじゃ) 」です。

水が既に涸れていますが、池に3本足の鳥居が立っています。
「三柱鳥居 (みはしらとりい) 」と呼ばれる鳥居で、これを建設したのがこの一帯を支配していた秦氏 と言われています。

秦氏 = ツクヨミ一族

また、奈良の盆地と阿蘇、霧島、高千穂の辺りまでを支配していたのが秦一族 / 月読命 (つくよみ) の王朝です。

秦氏の始祖は弓月君 (ゆづきのきみ) であり、ツクヨミは、アマテラス、スサノオと共にイザナギの禊から生まれた三神のひとつとされています。
月を司るとして崇められていますが、その正体は月氏 (がっし) と言われていますが、秦一族です。

かつて、日本から旅立ったイスラエルの民、ヤコブの一派である「ツクヨミ一族」が、日本に帰ってきました。
この一族が秦氏ということになります。

また、秦氏・出雲族の末裔が、北朝天皇家となりました。
※現在の天皇家は、明治時代に南朝である李家となっています。


秦氏は現在も続いており、日本の殆どの大手企業に入り込み、それぞれの企業を競争させ、コントロールしているようです。
現代のそのような仕組みを作ってきたのが「秦氏」なのです。

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

このブログを作成するにあたり、
Naokiman 2nd Channel さんの「秦氏のトップが語る日本の起源と地球の未来とは?!」
MATT SHOW【都市伝説ch】さんの「【神回】これが答えだ!月刊ムー三上編集長が語る秦氏!」
島田秀平の旅杯さんの「【都市伝説】渡来人!秦氏はユダヤ人!?」
を参照させていただきました。



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