X100を売っちゃった
このアカウントで一番多くのいいねをいただいている投稿は,X100のレビューです.これ.
読み返すと全く,恥ずかしい文章です.カメラのレビューでこんな感情いれるかね,普通.
今回このカメラ,X100を売ってしまいまして,お別れ投稿をやろうと思ってこの文章を書いています.とっても好きなカメラでしたからちゃんと振り返っておこうと思います.以下の作例はすべてX100で撮ったものです.正直あんまりうまい写真じゃないです.
親友とコミケに行ったときの写真です.楽しかったなあ.しかし,東京という街は,行くたびに私を拒絶してはいないかと思います.自意識過剰でしょうか?いやいや,東京という街に私が順応して,資本主義の中枢を担う未来が見えないです.まだ就職をしない大学4年生特有のコンプレックスかもしれませんがね.
皆さんご存知のことと思いますが,X100はとっても不完全なカメラです.まさか商業写真を撮るためにこのカメラを使う人はいないでしょう.最新の一眼カメラに劣るどころか,多分あなたのスマホのほうがずっと完成度の高い写真が撮れます.iPhone13のほうが細部のディティールも残っているし,暗所にも強い.X100には手ブレ補正なんてないですし,レンズの解像度も甘々です.よーく拡大すると,全然写ってないんですこのカメラ.
おばあです.ずっと生きててほしいですね.
ではなぜそんなロストテクノロジーなカメラを手元に残していたのかというと,これで撮った写真には生命力が宿るからでした.生命力というのは抽象的な言葉ですから私なりの解釈をすると,写真を見直したときに,その場面における感情を想像できるほどの情報が記録されているのがこのカメラの魅力だろうと思うのです.
幸運なことに,このカメラでいろんな場面を写すことができました.その場面一つひとつに,脳内に焼き付いた思い出があります.その思い出は脳内のどこかには存在しているのだけど,普段は思い出せないんです.その索引として機能してくれるのが,まさに写真という装置なのだろうと思います.しかしながら,写真というのは二次元の情報ですから,時間軸まで含んだ四次元の現世をすべて切り取るには不完全なフォーマットです.そんなわけで,少なくとも私は,iPhoneやαで撮った写真からは感情まで想起するのは極めて難しいんです.現世を微分する過程で,そのような情報は切り捨てているのだろうと思います.というよりも,各カメラで,このカメラを使っている人はずっと幸福であるはずだと約束したり,ちょっとメタンコリックかもしれないと固定したりして,情報を2次元空間に落とし込んでいるのでしょう.例えば,スマホカメラで撮った写真をずっと見続けていると,みんな素晴らしい人生を送っていて,負の感情を切り捨てているかのような幻想に取り憑かれます.取り憑かれませんか?
その点このカメラはどうかというと,基本的にハッピーなのだけれど,ちょっとずつさみしい写りをするんです.そのアンニュイさがまさに普通の人間の精神状態と似ている気がして,とってもいい画作りだと感じています.ベルビアのあまりにあざやかな写りを見ると,ちょっと無理して明るいノリについていったときみたいな悲しみを想像してしまいますし,アスティアの緩やかな空気感からは,不安定でどっちつかずな感情が思い起こされます.どんなモードにしても,その時の正の感情と負の感情が想起されるのが不思議なのです.
そのような感情のミクスチャーを再現できるから,このカメラの写真からは生命力を感じるのだろうと思います.人間ずっといいわけないし,ずっと楽しいわけないと思うんです.ちょっとくらいえぐみがあるほうが,生きていると自信を持って言えるではありませんか.そんなえぐみつらみかなしみを,ちょっとスパイスくらいに写してくれるから,きっと写真から生命力を感じるんです.
散らかった写真部の部室です.楽しいんですよ?写真部
じゃあなんでこのカメラを売ったんですかってお話ですが…正直いろんな理由があります.今手元に残っているカメラはdp1Q,α7RIII,D850,5DIIIの4つで,αはなにかと信頼できるカメラだから,商業写真用においておきたい.こいつは趣味以上の意味があるカメラですから.5Dも人をカンデリの場面で写すときに必要.EFレンズを祖父からもらってしまいましたし.D850は…レフを使いたいという意味でおいてあるだけだから,K-1IIIが出たら売っぱらう予定です.dpは…どうしましょうね.その中でX100はひときわ愛着のあるカメラだったのだけど,切るとしたらこいつしかいませんでした.
俗世的な理由をいうと,お金がないから.嘘です.本当の理由をいうと,明るい人間になりたいからです.いろいろあって,いま私は明るい人達に囲まれて研究しています.私はド陰キャで心の弱い人間なのだけれど,彼らは恒星のように,とどまることを知らず明るく過ごされています.そんな彼らに一種のジェラシーを覚えるというか,素直に尊敬してしまうのです.いや,恒星というのはきっと嘘で,彼らにも迷いや悲しみや憎しみなどの負の感情はあるはずです.それを周りに見せることがないだけで.私が浅はかな故に,根っから性格が明るくて悲しい出来事なんてこのひとには存在しないのではないかと錯覚してしまうだけなのでしょう.
そんな取繕い,いやまっすぐ生きる力を持つ者が大半であるから,スマホカメラの写りはひときわ明るく,悲しみを知らないのでしょう.私もそんな人間になりたい.と思いまして,X100はやめにしようと思った次第です.
ちなみに,dpの写真は8割物憂げで,2割があほほど明るい,パチンコみたいなカメラです.感情がぐちゃぐちゃになるX100よりもたちはいいかなあと感じています.
でも,本当にいいカメラでした.先述な器用な人間にはなれないと諦めるときが来たら,X100Fを買い戻そうと思います.レンズがX100と一緒ですからね.