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【発売記念 無料公開!】『崖っぷちだったアメリカ任天堂を復活させた男』 序章「岩田聡氏との別れ」④

DS, Wii, Switch…
岩田聡氏と二人三脚で進めた任天堂の世界戦略の舞台裏とは

ニンテンドーDSやWii、Nintendo Switchを世界市場に送り出した、元アメリカ任天堂社長の著書『崖っぷちだったアメリカ任天堂を復活させた男』

こちらでは、任天堂元社長である故・岩田聡氏との知られざる秘話をつづった、序章「岩田聡氏との別れ」を期間限定で無料公開します。

前回まではこちら


別れの旅路

私の中では、岩田氏の病室での楽しかったひと時の隣には、その1年後に開かれた葬儀の記憶が並んでいる。それは私の中に深く刻まれている。私たちは東京に着いてから別の飛行機で大阪に飛んで、そこから故人との別れがなされるお寺まで電車で行く計画だった。これは異例のことで、いつもなら新幹線という高速の列車に乗って京都に行く。電車のほうが少し時間はかかるがより便の数が多い。いずれにせよ、故人との対面は当日の夜に行
われ、翌日が葬儀ということで、一刻を争う状況だ。

今回はNOAを代表して、私を含む数人で一緒に旅をしている。私たちは飛行機のトイレで喪服に着替えた。飛行機が迫りくる台風のせいで激しく揺れていたため、私みたいに体の大きな人間には大変だった。飛行機は予定より遅れて到着し、次の便との接続がギリギリだったため、フライトアテンダントが他の乗客にお願いして、先に私たちを降ろしてくれた。入国審査でも迅速に手続きしてもらったが、通過すると、大阪行きの次の便は遅れるか、あるいは即座に運航中止になるかもしれないと知らされた。私たちは予定通りそ
のまま飛行機を乗り継いでそれから列車で行くか、あるいは新幹線で直接京都まで行くか決めなければならない。チームが私に顔を向けた。私の決断が間違えば、故人との別れに間に合わない可能性も出てくる。

私は新幹線で行くことに決めた。新幹線は時間通りに走行する。1分でも到着が遅れたり、逆に早く到着したりしたときでさえ、制服を着た車掌が謝罪するくらいだ。
新幹線が京都駅に到着する頃には、時間が切羽詰まっていた。お寺まではタクシーを使うしかないが、列に並んで待たなければならず、そうなるとさらに遅れてしまう。チームのメンバーの1人が事前に電話して、お寺を開けておいてもらえないかと頼んでくれていたが、その要望に応えてもらえるかはわからない。

私たちはやっと目的地に到着した。残っていたのはわずか数名だけ。その日の早くには1000人を超える人たちが故人との別れに訪れていたそうだ。任天堂のスタッフが早くから大勢の人たちに対応していたようで、その中に馴染みの顔もいた。君島 達己(きみしま たつみ)氏が現場にいた古参の人物だ。君島氏はNOAの社長だったときに、私を採用してくれた。このとき彼は任天堂の最高財務責任者だったが、その後任天堂の第5代グローバル・プレジデントとなり、正式に岩田氏の後任となる。

私たちは遅れて着いたため、岩田氏の棺には翌日の葬儀のために、葬儀用の布がかけられていた。気持ちを集中させて覚えていた手順で焼香を行っていると、君島氏から友人をご覧になりたいですかと聞かれ、はいと答えた。

私はしばらく岩田氏の前に立っていた。私の友人であり、メンターであり、導き手だった人が亡くなったという事実を受け入れるしかなかった。岩田氏の逝去がきっかけで、私は自分のキャリアについて深く考え、任天堂に何を
残したいのか考えるようになった。そしてそれから先のことについても。



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