ニシさんの話(1)

「仕事やめたんだってな」
 大西さんから急に電話がかかってきたのは11時ごろだったと思う。おれはまだ寝ていたので、しばらくはそれがパイセンだと気づかずタメ口でガタガタ吠えてしまった。誰だよオメェ? オオニシぃ?
「藪中の大西です」
 脳天がギーンと、コンクリートドリルで誤って鉄筋を掘り当てたときのように鳴った。藪中のニシさん―。
「いやいやいや、勘弁してくださいよ! 大西って言うから一瞬、ぜんぜん違うヤツの顔が思い浮かんじゃって! ていうか、あれ、ケータイの番号変わってません?」
 わりぃわりぃと電話の向こうでニシさんが笑うので余計に恐ろしくなった。ニシさんの笑い声を聞いたのは、これが初めてだったから。
 なぜ大西先輩がニシさんと呼ばれるようになったのかには、諸説ある。中一のとき、校内を仕切っていた三年の大西という奴がいて「同じ名前ムカつくからニシに改名しろ」と因縁をつけられて返り討ちにした結果、むしろその呼び名が残った説。これまでに2回、死にそうになったことがある説。 ニシはニシでも実はアメリカ西海岸の意味で本当は黒人の血が入っているらしい説。
 かつて少年野球チームに所属しており、ツーアウトで打席が回るとかならずホームランを打った説。余談だがニシさんの持っていた金属バットはやけに凹凸が激しく、打球にはしょっちゅう血がついたが監督さえ注意できなかったと聞いたこともある。
 ニシさん。
 眩しそうに目を細めながら改札を出てきて、おれに向かって手を振った。やっぱり笑顔だ。
「なんか変だと思ったんすよ」
「なにが」
「ニシさんが改札を出てきたとき、違和感っつーか、変な感じがして。やっとわかりましたよ。こんな昼間の正午から会うなんてガキのころ以来じゃないですか」
「お前は変わらないよ」
「そうすか?」
「昼間の正午」
「へえ」
「いいか、正午は昼間だろ」
「あ、はい」
「だから昼間の正午、って日本語はおかしいんだよ」
「どういうことすか」
「馬から落ちて落馬して。ってことな」
「わかんないっす」
「じゃあいいや」
「すいませんバカなんで」
 ニシさんがひさしぶりに電話をくれて、しかも飲みに誘ってもらったのが嬉しくて、おればかりベラベラ喋り続けてしまう。仕事は辞めたのではなくてクビだったこと。小遣いをくれる女がいるのでしばらくは居候したり実家に戻ったりの往復で暮らしていること。
 まさか、ニシさんに仕事を都合してもらおうと愚痴ったわけじゃない。そこには一線を引かなければいけないムードが、昔からニシさんのまわりにはあった。おれはとにかく時間にルーズな人間だし、細かいところまできっちり目を光らせているニシさんと一緒に仕事するのは無理だと、勝手に決めつけていたところもあった。
「仕事あるよ」
 ニシさんに誘われたとき、だからおれは素直に驚いたし、きっと冗談だと思ったのだ。だって、おれは、ルーズな人間ですよ。
「時間どおりに来たじゃないか。さっき、駅の改札でオレよりも先に着いて待ってただろ」
「そりゃあ相手がニシさんだからですよ」
「全部オレだと思えばいい」
 わかったようなわからないような感じがしたけれど、この悟ったような乱暴なような言い方がニシさんぽいな、とおれは思った。

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