四軒長屋(3) 東富山の家
高度成長の富山市へ
富山湾沿岸とほぼ並行に東西に走る「あいの風とやま鉄道」。
かつてはこの鉄路を、北陸本線の列車が通っていた。
いまも、沿線には、昭和レトロと言っていいような、木造の駅舎が残っている。
富山駅の東隣りにある、東富山駅もそのうちのひとつだ。
東富山駅があるあたりは、東富山寿町。みんな昔から「東富山町」と呼んでいた。
父と母、2歳上の姉・佳美、5歳下の弟・稔、そしてわたし。
藤井家の一家5人が、滑川を後にして、東富山町に越したのは昭和30年だった。
戦後復興を遂げたばかりの日本は、好景気のただなかにあった。
まだみんな貧しかったけれど、高度成長の熱気のなかで、みずみずしい希望を胸にいだいていた。
わたしの父も、一念発起をして、あえて知り合いのいない富山市で、新しい商売を始めることにした。
勤め人を辞め、自分で起業してしまえば、学歴など稼ぎの多さには関係ない。
ちょうど、東富山町で不二越が売りに出していた店舗兼住宅があった。
父は、その物件を買い求めて改装し、豆腐店の看板を出した。
町の井戸に湧く水はとても美味しく、水質の良さは豆腐作りの命だから、店を構えるにはうってつけの場所だった。
東富山町は、富山市の北部にあり、さらに北へ向かうと大きな工場地帯や富山港、西へ向かうと富山運河に出合う。
周囲の工場は、好景気を反映してか、日夜休みなく煙突から煤煙を吐き出しており、その裏手には、社員寮など工員用の住宅がいくつも造られていた。
富山北部工業地域。昭和のはじめから工業とともに発展してきたこの一帯は、戦争中は、アメリカの攻撃目標となった。運河の岸に原爆の模擬爆弾(パンプキン爆弾)が投下され、民家や学校も被害を受けたそうだ。このことは、ずいぶん後、大人になってから知った。
積み木の家
わたしたち藤井家の新居は、戦前に建てられた四軒長屋が密集する一区画にあった。そこには、碁盤目のように細い溝(どぶ)が切られ、狭い路地に沿って、1棟を4戸に割った町家が、何棟も立ち並んでいた。
四軒長屋の1軒1軒は、ふつうはぜんぶ同じつくりだ。
溝をまたぎ、間口の狭い玄関を開けると、土間兼台所の奥に、居間と仏間が続くのだが、わが家の場合だけは、玄関から居間までの部分が店舗となっていて、奥の仏間が居住部分だった。8畳ほどの和室があって、そこに、大人から子どもまでの5人が、寝起きするのだった。
家のつくりはかなり古く、壁も薄いのか、隣家の物音は丸聞こえだった。
ただ大好きな父が、豆腐作りをしながらずっと家にいる。わたしは、すぐに、ここでの暮らしが気に入った。
2歳上の姉は、近所の大広田小学校に転校することになった。
就学前のわたしはお留守番。
父と母は、新しい仕事に慣れるのに一生懸命だ。
とくに母は、まだ小さく手がかかる弟に気をとられ、姉が小学校から帰るまで、わたしは毎日ほとんど一人遊びをして過ごした。
外へ出てみれば、四角い長屋が、東西南北に整然と立ち並んでいる。
わたしはこの風景がきらいではなかった。
ある日、わたしは一人で路地を歩いていた。
そのうち自分の歩みにしたがって、長屋の建物が自分と同じ速さで、後ろに動いていくことに気がついた。
足の速度を速めると、景色の動きも、同じように速くなる。
6歳のわたしにとって、これは大発見だった。
昔から体が小さく、ひ弱なわたしだったが、こんどは思い切って駆け出してみた。
すると、四角い積み木をたくさん並べたみたいな長屋の景色が、視界の後方にぐんぐん動いていく。足を止めると景色も止まる。また駆け出すと景色も動く。
わたしの思いのままの速度で、広い空の下を、幾何学模様の風景が流れていく。
スピードをあげて走ったときの、美しさに誰が気づいただろう。
その後も、ひまさえあれば、たびたび路地を縦横無尽にかけっこした。
視界に流れる幾何学の風景をつくりだしては、ひとりで悦に入ったものだった。
だが、このときは、まだわたしも姉も、自宅に隠されたひみつを知らなかった。
わが家は近所から「首吊りの家」と呼ばれていたのである。
(写真はイメージです)
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