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浮世渡らば豆腐で渡れ(5) 姉妹の暮らし

姉いもうと

 
 わたしはからだが小さく弱かったが、癇癪持ちで気は強かった。
 幼いころ、父が買ってきてくれたミルク飲み人形が気に入らないといって、「こんなのほしくなかった」と、地団駄を踏んであばれたこともある。
 学校で使うお道具を探していたときなどは、忙しくしている母に横柄な態度を取って、父から横っ面を張り倒されたこともある。父は店の土間で豆腐を作っていたが、長靴を履いたままの土足で畳の仏間に駆け上がってきた。だが、父が手をあげたといえば、そのときぐらいだろうか。

 姉の佳美はわたしより二歳年上で、子どもの頃からいまも変わらず優しい人である。わたしは姉が大好きで、姉が学校へ行く時以外は、そばから離れることはなかった。
 姉の気を引きたくて、「ちょっかい」を出すことはしょっちゅうだった。わたしがしつこくしても、優しい姉は腹を立てなかったが、遠くから見ていた母が、
 「こら、幸子! なにしとるがけ! 妹なんやから、姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞かんにゃダメやろ!」
 と、かわりに叱るのだった。
 口やかましい母だったが、末の弟は目に入れても痛くないようで、弟が私に悪戯した時などは、
 「幸子! なに言うとるがけ! 姉ちゃんなんやから、弟のこと、大目に見てあげんにゃダメやろ!」
 とわたしを叱る。
 女の子と男の子では、こうまで親の扱いが違うものかと、わたしはおおいに不満だった。


 ヤンチャなわたしが悪戯をすると、母は、「お仕置き」として、わたしを布団でぐるぐる巻きにし、押し入れに閉じ込める。もちろん手加減しているので、息がつまることはなく、わたしは、押し入れの中で、すやすやと気持ちよくお昼寝をするだけだった。
 ある日のこと。部屋の壁を足で蹴ってまで、激しいかんしゃくを起こすわたしに、堪忍袋の切れた母は、大豆を出して空になった麻袋をつかむと、わたしを押し込んだ。さらに袋の口をしばり、暗い押し入れにわたしを閉じ込めた。
 麻袋の中は、生の大豆の強烈な臭いが残っっているうえに、中は汚れていて不快極まりなかった。わたしは大泣きで、「袋の中から出してー」と、わめき散らした。あの時は、ひどい目にあったものだ。
 


 ふたりのお手伝い

 
 とにかく東富山へ引っ越してからは、豆腐づくりで忙しい父と母の姿しか知らない。
 そんな両親の様子を見ていた姉は、何かしたいと思ったのか、
 「さっちゃん、一緒にお手伝いせんけ?」
 と、わたしを誘った。
 毎朝早い時間に、父と母が起き出したあと、畳の部屋には布団が敷きっぱなしになっている。姉は、それをわたしと一緒に畳んでしまおうと言うのだった。
 小学一年生と三年生の姉妹だった。ふたりで布団はなんとか畳めたが、次は、押し入れに上げなければならない。
 今と違って昔のことだから、掛け布団も敷布団も真綿を使っており、湿気を吸って、ずっしり重いのだ。
 ともかく押し入れの襖を開けて、身軽なわたしが上段によじのぼる。姉は、踏ん張りながら、畳んだ布団を下から持ち上げる。それをわたしが上から引っ張り上げる。姉とわたしは、こうして布団を上げることに成功した。
 時には、わたしが布団を取り損ね、姉がひっくり返ることもあった。そんな時は、ふたりで大笑いだ。
 大好きな姉と一緒だと、面倒な家事手伝いであっても、いつも楽しく感じられた。

  口やかましい母、優しくも厳しい父。
 姉と違い、お転婆なわたしは、叱られることはしょっちゅうだったが、両親に共通して言えることがひとつあった。
 子どもたちが、お手伝いをしているときには、失敗しても、決して叱らないのだ。
 思い出すのは、店の豆腐を運ぶお手伝いをした時のことだ。わたしは、土間に張り出していた荷物にぶつかって転びそうになった。
 すぐに母が、
 「危ないから片付けとかれぇ」
 と注意してくれたのに、「うん」と生返事をして忘れてしまった。そのあとすぐに、両手に水と豆腐の入った桶を抱え、店の中を運んでいると、さっきの荷物に足が当たり、今度は転んでしまった。やわらかい豆腐は床に落ち、ぐちゃぐちゃ。もう売り物にならない。
 けれども父は、
 「だからさっき、片付けとかれと言ったやないか」と諭すだけで、大切な商品を台無しにしたことを叱ったりしなかった。
 思い返すと父や母は、わたしや姉が、お手伝いを失敗したときに声を荒げることは、一度たりともなかった。ほんとうに一度もだ。
 最初はうまくできなくても叱ることなく、次にうまくできるヒントをくれる。こうして、わたしと姉は進んで店のお手伝いをするようになった。
 

洗濯といじめっ子


 姉とわたしは、毎日の布団上げのほかにも、お手伝いに励んだ。
 食事のときの味噌汁づくり、まだおむつの取れない弟の世話など、すすんでやった。母は、
 「助かる。助かる」
 と大喜びで、わたしも嬉しかった。

 当時、弟のおむつは近所を流れる用水の洗い場で下洗いをした。姉がわたしを連れて、おむつを洗っていると、同じ小学校の男の子たちがやってきて、上流の土手でズボンの窓をあけ、ワイワイ囃し立てながら、盛大におしっこをし始めた。
 彼らが放ったおしっこは、下流で洗い物をするわたしたちの方に流れてくる。男の子たちは、困らせようと、わざとやっているのだ。
 
 おとなしい姉は悲しそうな顔をして洗濯の手を止め、待つだけだった。だが、わたしは姉とは違う。
 「あんたら、なにするがんけよ!」
 そばにあった棒を拾い高く掲げて悪餓鬼どもを威嚇した。彼らがワッと言いながら、土手から四方へ駆け出すと、わたしは棒を振り回しながら後を追いかけ、逃げ遅れた男子を叩き回した。
 それからというもの、姉が用水で洗濯をする時は、わたしが仁王立ちになって、見張り番をするのが日課になった。遠くからいじめっ子がやってくると、にらみつけて「なぐるよ?」というように棒を振り上げた。

 そのうち、男の子のひとりが、わたしに恭順し、いろいろ教えてくれるようになった。
 気が優しく人に逆らわない姉は、学校でも時々、意地悪な子どもたちの標的になっているらしかった。
 本人が家で話さないので、わたしも家族も気づかなかったのだが、姉は、滑川の小学校から転校してきて以来、ずっと「豆腐臭い、豆臭い」といじめられていたのだった。

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